待降節第二主日。クリスマスは、特に賛美歌を歌います。フィリピ2-6~11には初代キリスト教会が謳っていた「キリスト賛歌」(カルメン クリスティ)が引用されていると言われています。
1.「かたち」の意味
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり」と歌われています。ここで「身分」という翻訳は良くありません。口語訳では「かたち」と翻訳されており、このほうが良いです。「モルフェー」とは本質に対応したそのときどきの「かたち」を意味しています。ものの本質がそのときどきの「かたち」をとり、しかも、本質は変わらない、そのようなものが「かたち」です。
2.自分を無にして
ここでは、「神のかたち」と「僕のかたち」が対比されています。「神のかたち」と「人のかたち」の対比ではなく、神のかたち、つまり、支配することと「僕のかたち」つまり、仕えて生きることが対比されています。神のみ子キリストは神の本質をもって父なる神のもとに、父なる神とともに、父なる神の中に存在していたのですが、その本質を、固執しようとはせず、イエスとして、この地上に来られたというのです。それはまさに、ご自分を無にすること、謙虚な姿でした。
3.低みに降る神
この賛歌は、さらに、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と続いています。イエス・キリストは人となられた神です。問題の多いこの世界、問題の多い人間。人間として生きることは並大抵なものではありません。十字架の死は、人となれたみ子が私たちの孤独、悲惨、苦悩を味わい尽くされるため、最も低い処に神ご自身が到達されるためだったのです。
4.他者を尊重する
実はこのキリスト賛歌は、私たちはどう生きるべきかという「倫理の文脈に」引用されています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」私たちには、へりくだって生きられた主イエスという模範があり、このお方を毎週賛美しているのです。具体的戒めには、イエス・キリストの愛が、赦しが先だっているのです。
5.自由へと高みに引き上げられた人間として
賛歌の第二節には、キリストの復活、昇天、そして天におけるイエス・キリストの即位の場面、上へと引き上げられたキリストについて歌っています。私たちは、キリストの栄光に預かる自由人として生きているでしょうか?(松見 俊)