皆さん、クリスマス、おめでとうございます。今日は、クリスマス礼拝です。イエス・キリストがこの世に来られたことを共に祝いましょう。
イエス・キリストはこの世に生まれられました。イエス様は、私たちと同じような人間としてこの世に来られたのです。私たちと同じように日々、様々な出来事を通して、喜び、悲しみ、悩み、生きたということです。クリスマスは、そのイエス・キリストが、この世に生まれたことを喜ぶ時です。イエス様は、この世に生まれ、そして今を生きる私たちと共に生きて、私たちを愛してくださっているのです。
今日は、主イエスが今、私たちと共にいて、私たちのことを心の底から励まし、愛し、生かしてくださっている、その恵みを共にいただきたいと思います。
1: マリアの思い
今日の箇所は、そのマリアが神様を讃美した箇所です。マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(47)と賛美しました。この賛美はマリアの神様に対する基本的姿勢、信仰の賛美です。「わたしの魂は主をあがめ」、「神をたたえる」のです。「主をあがめる」という言葉は、神様である主を自分の中心に据えた姿勢であり、この賛美からマリアの信仰の姿を見ることができるのです。
マリアはガブリエルによる、受胎告知の出来事、マリアが神様の御子を産むことを、信仰をもって喜び、神様を賛美しました。しかし、またマリアの心境を考えてみますと、その信仰の喜びの中にも、小さな不安があったのではないかと思うのです。マリアは喜び、賛美しました。しかしそれは平安で穏やかな心というよりも、不安も抱えながら、それでも信仰をもって賛美した。さまざまな思いが入り混じったなかで、それでもマリアは主を賛美したのではないかと思うのです。そして、その賛美は、ある意味とても重みのある信仰の賛美でもあると思うのです。
マリアは、救い主イエス様の母親となることを告げられたのです。その最初の反応は「戸惑い」でした。それでもマリアは神様の導きの中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)と告白する者とされていったのです。マリアは、神様の恵みを受け入れて、喜びをいただいたのです。しかし、マリアの心の中には、小さな不安や恐れという思いがあるのではないか、そしてそれが人間の心であり、喜びの中にも、悩みや不安、迷いを持つものであるのではないでしょうか。
2: 言葉にならない時
そのような、喜びと不安の入り混じる心のなかで、マリアは、今日のこの箇所で、信仰の賛美を歌うのです。この賛美は、旧約聖書のサムエル記に登場する女性「ハンナ」の賛美に内容も様式も沿っていて、とても似ているものだと言われています。ハンナは息子サムエルを与えられた時に、神様を賛美しました。そしてサムエルを神様に献げていくのです。マリアはこの「ハンナの賛美」を知っていたのではないか、そして「ハンナの賛美」に自分の気持ちを合わせて歌ったのではないかと考えられるのです。
マリアにとって、救い主の母親になることは、恵みであり喜びであり、賛美することであったのです。ただそこには人間としての、不安や悩みでもあったでしょう。普通の一人の女性であったマリアです。神様の御業を自分が担うことを一度は引き受けたものの、その心には不安もあり、実のところは、何と言っていいのかわからない思いであったのではないでしょうか。
そして、だからこそ、マリアは、自分の思い、自分の言葉だけに頼るのではなく、聖書の中にある御言葉、同じように、神様から子どもをいただき、また献げていくという立場にあった「ハンナの賛美」に目を向けたのではないでしょうか。
マリアは、聖書の御言葉に頼っていったのです。自分の気持ちが不安定な中で、御言葉に頼り、御言葉によって神様に向かい会おうとしたのです。そして、マリアは、御言葉に目を向け、賛美に心を合わせていく中でこそ「主をあがめる」という姿勢、まさに神様を中心とする信仰へと導かれていったのです。
これらのことは、私たちにも、また、同じことが言うことができるのです。私たちの人生は「楽あれば苦あり、苦あればなくあり」と、「七転び八起き」、と、良いこともあれば、抜けられない困難に向き合わなければならないこともある。それが人間の人生です。そしてそのような人間の人生の中で、御言葉は生きる希望、生きる喜び、生きる勇気を与えるのです。
3: 御言葉をいただく
マリアは、聖書の御言葉に目を向け、そこから賛美の言葉、賛美する心、信仰をいただいたのです。この姿は、御言葉に向き合うことの大切さを教えます。賛美をする気持ちになれない、祈りの言葉も見つからない。そのような時に、神様の御言葉は、私たちに生きる希望、生きる喜び、賛美の心を与えてくださるのです。
今日は、クリスマス礼拝です。クリスマスはイエス・キリストの誕生の時です。キリストは確かに、2000年ほど前に、この世界にお生まれになられました。神の子イエスが、人の子として、この世に生まれられたのです。そして、それはただ2000年ほど前にイエスという一人の人間が生まれてくださった・・・で、終わる出来事ではないのです。イエス・キリストが、救い主としてこの世に生まれたということは、今、ここに生きる私たちと共に生きていること、私たちの心の中に、共に生きてくださっていることを意味するのです。イエス様はこの世界に、そして私たち一人ひとりの心のうちに来てくださるのです。つまり私たちの心の中に生まれてくださるのです。私たちが苦しく、悲しく、嘆きと痛みの心のうちに、イエス・キリストは私たちの心のうちに来て、その痛みや重荷を共に担って、生きていてくださるのです。光が見えない、希望もないという、私たちの心のうちに、イエス・キリストはきて、光となり、私たちの心に希望を与え、生きる勇気を与えてくださるのです。
そして、このイエス・キリストがこの世界に来られたという救いの出来事、救いの希望を、私たちは、主の御言葉、聖書の御言葉からいただくのです。それは、今日のこの場面においてマリアが聖書から賛美をいただいていくように・・・不安や迷いの中で、御言葉は生きる希望、光の道を与えてくださるのです。
ヨハネの福音書では、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1)・・・「言は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)・・・「恵みと真理とはイエス・キリストを通して現れた」(17)
イエス・キリスト、この方こそが「言」であり、「言」であるキリストが肉となり、私たちのうちに宿られたと教えるのです。御言葉とはイエス・キリストであり、命に希望と、生きる勇気を与えるのです。神様の御言葉は不安の中に希望を与え、孤独を感じている者に、主なる神が共にいてくださることを示し、生きる勇気を与えてくださるのです。
イエス・キリストはこの世に生まれました。私たちはこのことを自分自身のこととして感じているでしょうか。私たちはまず、御言葉に目を向けましょう。キリスト、救い主が私たちの心に生まれるという出来事、希望をいただくことは、御言葉に目を向けることから始まるのです。御言葉に目を向ける時に、自分自身の今の気持ちとは、食い違う、そのような賛美の言葉に出会うこともあるでしょう。しかし、私たちは、その御言葉に目を留め、御言葉に耳を傾けていきたいと思うのです。御言葉は私たちの心にキリスト、神様の愛を生み出してくれるのです。御言葉に目を留めていくとき、私たちは聖霊によって、少しずつ変えられていく。賛美と信仰をいただいていくのです。
4: 低い者を高く上げる方
マリアは心にイエス・キリストをいただきました。そして賛美をしました。
「52 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(52-53)マリアは「神様は、低い者を高く上げ、飢えた人を満たす」と賛美します。これは、神様が人間の持つ価値観を打ち砕くことを賛美しているのです。
私たち人間の社会の価値観は、とても自己中心的な価値観となっているのです。人間は、まず自分のことを考えます。それが普通ですし、その心を否定する必要はないでしょう。ただ・・・そのために自分だけが権力を持ち、自分だけが財産を持っていくこと、自分だけが満たされること・・・「自分だけ」という思いになっていくときに、それはとても自分勝手で、自分中心な価値観となってしまうのです。この自分勝手な価値観は、時に他者を傷つけ、悲しませてしまうのです。そして同時に自分自身が苦しむことになってしまうのです。
マリアの賛美は、そのような人間の弱さから生まれる価値観を打ち砕く、神様の愛を賛美するのです。神様は人間にイエス・キリストを送り、その心に、神様による愛を与えてくださったのです。イエス・キリストが心に生まれること。それは心の中に神様の愛が生まれるということです。神様は私たち人間のために、御子イエスをこの世に送って下さいました。イエス・キリストは、この世に来られ、十字架の上で、私たちのかわりに、苦しみ、痛んで、死んでくださったのです。このイエス・キリストの十字架によって、神様は愛を示されたのです。
わたしたちは神様によって愛されているのです。神様は、どのような時でも、私たちと共に生きて、「あなたを愛している」「あなたが必要だ」「共に生きていこう」と語りかけてくださっているのです。
クリスマスは、この世にイエス・キリスト、救い主が生まれた時です。それはこの世界に神様の愛が示され、その愛によって、人間が喜んで生きて、お互いを愛し、お互いの存在を認め合い、共に生きる道を歩き出す・・・そのための愛の心を送ってくださったということなのです。わたしたちは、今、自分の心のうちに、キリストによる神様の愛を迎え入れましょう。救い主は生まれました。私たちの心の中に愛を生み出してくださったのです。今、私たちはこの愛を受け取りましょう。そして、その愛を持って、どのように生きることができるのか、共に考え、共に悩み、共に喜んでいきましょう。(笠井元)