私の古くからの友人にラン・ハンキンスさんがいます。彼は南部バプテストの宣教師ではありましたが、今はフリーで生きています。彼がまだ若かったとき、千葉県の市川におられたのですが、日本に来て驚いたことがあると言っていました。日本では年の暮れに「忘年会」というのをするわけです。世の中のクリスマス騒ぎが色褪せ、次に「忘年会」、そして、新年を迎える日本式の飾り付けが始まります。
むろん、大みそかを何とかやりくりして多少借金も猶予してもらい、無事に年を越せるという商売の習慣では「忘年会」も意味があったことでしょう。しかし、ハンキンスさんは、「忘年会」ではなく「覚年会」をすべきではないか、と外国人クリスチャンならでは、のことを言っていました。その一年、あるいはこの一年の出来事を忘れるのではなく、感謝を持って記憶すること、覚えること、「覚年会」をしたら良いのに、という提案でした。今年最後の日が日曜日であり、礼拝の日となりましたので、そのような視点で、一年間を感謝を持って振り返る礼拝にしたいと思います。選びました聖書箇所はイザヤ55:6~11です。
1.困難の中での希望
この箇所は第二イザヤと呼ばれる箇所です。紀元前6世紀、バビロニア帝国によって滅ぼされ、エルサレムの神殿も破壊され、国の主だった人たちはその帝国の首都バビロニアに連行され、捕虜生活をしていたのでした。しかし、やがてペルシャ帝国が起こり、バビロニア帝国を滅ぼすと、ペルシャは寛容な宗教政策を取りましたので、50年後、捕囚とされたイスラエルの人々は故国に帰ることが許されます。イスラエルの人々はこのような歴史の変化の中に主なる神の導きを見たのでした。第二イザヤは40章から始まりますが、8節には、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉が語られています。「草は枯れ、花はしぼむ」。厳しい現実です。瑞々しく、勢いのある草も枯れ、美しく咲き乱れる花も枯れてしまいます。しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです。希望は困難の中から芽生えてくるのではないでしょうか。
軍事力の危うい均衡。相変わらずのマネーゲーム、金融資本主義と新自由主義経済政策がもたらす貧富の格差の拡大。強い者が弱い者を、弱い者がより弱い者を抑圧する社会。SNSと呼ばれる社会的情報ネットワークの広がりと情報操作というか無記名な情報の氾濫。一方的なこきおろし。私たちの直面する日常はかろうじて「生き残り」をかけた葛藤であり、到底感謝できない、悲しいこと、辛いことに満ちていることでしょう。主イエス様は何によりそのような私たちを御存知です。今朝の礼拝は、Iテサロニケ5:16を聞くことで始まりました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。キリスト・イエスにおいて、それが可能とされているから、喜び、祈り、感謝することが出来るのです。私たちは困難の中にあります。しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです。本当の希望は、困難の中から芽生えてくるのです。
2.来るがよい、求め、そして、得よ
ですから、イザヤ55章は、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」と呼び掛けています。「来るがよい。求めよ、そして、得よ」と言います。わたしたちには、「どこに行くのか、何を求めるか」が問われています。先ほど、申しましたように、軍事力の危うい均衡とマネーゲーム、貧富の格差の拡大、強い者が弱い者を、弱い者がより弱いものを抑圧する社会です。まさに、お金を越えた価値観をどのように造り上げるかが問われているのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(2節)「来るがよい、求めよ」と呼び掛けられていますが、私たちは、どこに行くのか、何を求めるかが問われています。皆さんは、主なる神の処に行き、主なる神を求めねばなりません。そして、生活に必要な水、穀物、そして、生活を潤す酒と乳は無代価で提供されるのです。「ただより高いものはない」と言われたり、「なんだ、ただか!つまらないものだ!」というような意味での無代価ではありません。それは私たちが支払うにはあまりにも価値があり、ただ、恵みとして受け取ることができるのみだからです。インドネシアとオストラリアに挟まれたアラフラ海で、ある真珠採りが海底深く眠る大きな「あこや貝」を見つけました。それを採ろうと何度も挑戦しましたが無理でした。しかし、ある日、意を決して彼はそれを採りましたが、彼の息が続かず、彼は死んで、浮かび上がってきました。しかし、彼の手にはあの「真珠貝」がしっかり握られていたそうです。ある日、彼の母親の処に「いくらでも金を出すので、その高価な真珠を譲ってくれ」と頼む人が現れました。その人は何度も母を訪問しましたが、いくらお金を積んでも答えは「ノー」でした。しかし、ある日、母親は余りの熱心さに負けて、「これをただであげます」と言ったそうです。「愛する息子が命懸けで採って来た真珠に値段を付けることはできない。ただ、プレゼントすることができるだけだ」と言うのです。「銀を持たない者も、値を払うこともなく」来いと呼び掛けています。水や穀物やぶどう酒や乳が高価であるとうのではないでしょう。「わたしに聞き従え」と言われる神の招きが溢れる恵みであるがゆえに、主なる神の下に行くがゆえに、無代価なのです。
3.主を呼び求めよ
そういうわけですから、今朝読みました6節には、「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」そして、「主に立ち帰れ」と命じられています。主イエス・キリストにおいて、主なる神は近くにおられ、見出されうるお方です。主イエスにおいて神は近くに、私たちの傍らにいまし、主イエスにおいて、神は憐れみの神、赦しの神です。それが、私たちがクリスマスに聞いたメッセージでした。「主を尋ね求めよ、呼び求めよ、立ち帰れ」と命じられていますが、クリスマスのメッセージはイエス・キリストにおいて神ご自身こそが「私たちを尋ね求め、呼び求め」ちょっと可笑しな言い方ですが、「立ち帰って」この世界に来てくださったことを聞いたのでした。
4.主なる神の言葉は成し遂げる
それでは、私たちの注意を8節以下に向けてみましょう。主なる神は私たちの近くにおられると言って、人と神を余りに近くに考えてはなりません。神と人との間には、距離があり、違いがあるのです。この距離と違いがあるからこそ、神は私たちを救うことができるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている。」(8~9節)この神と人との近さ、そして、神と人との違い・距離は、「み言葉」によって繋がれるというのです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」(10節)。わたしたちは、雨や雪という被造世界の中に働く神の恵みを知ることができます。人もまた被造物の一員です。ここに人と被造世界と神との深い繋がりを見ることができます。しかし、人も自然世界も神ではなく、神から離れ、歪んでいます。雨も雪も過剰に降れば、集中豪雨、「どか雪」となり、人に災いを与えます。東日本大震災と津波によって見ている前でその家族を失った男性漁師が、「海が憎い」という叫んだ言葉を忘れることはできません。豊かな海産物を与え、彼らの命を支えていた恵みの海は、決して神ではなかったのです。津波となって、集中豪雨となって人の命を奪うこともあるのです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」という美しい詩に、「主なる神の口からでる言葉」を加えねばなりません。今でも痛んでいる人たちが沢山います。
人の語る言葉には必ず「意味」があります。言葉が出ない、人の思いにも意味があるのかも知れません。人の言葉は、あるいは人を慰め、支え、あるいは、人を傷つけます。ルドルフ・ボーレンという説教学者は「つまらない説教も効果がある。会衆はあくびをし、時計に目をやる」と言います。そのような効果があるというのです。ちょっと嫌味な言い方ですけれど、まあ、当たっているのかも知れません。しかし、神の言葉は、人の言葉や自然界の雨や雪にはるかに勝ります。はるかに勝るのですが、雨や雪に似てもいる。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それは、わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(11節)。これがイザヤの確信であり、わたしたちの確信です。神の口から出る神の言葉は、むなしくは、神のもとには戻らず、神の望むことを成し遂げ、神の与えた使命を必ず果たすのです。これがこの一年を覚える私たちを支える言葉です。
5.主の言葉は危機の中でこそ聞こえる
ヘブライ語の言葉を意味する「ダーバール」には、「言葉」という意味だけでなく、「約束」「出来事」「もの」という意味の広がりがあります。まさに、「言葉」は「出来事」となり、具体的な「もの」となります。それでいて「約束」なのです。しかし、必ず成る「約束」です。また、どういう訳かは分かりませんが、荒野あるいは砂漠を意味する「メディバール」も「ダーバール」=「言葉」という用語から由来しています。荒野あるいは砂漠では何の「言葉」も聞くことができないと私たちは考えます。しかし、ヘブライ人は砂漠の中で、その困難と静寂の中で神を賛美する被造世界の賛美の歌を聞いたのかも知れません。そして、この世の幸福のただ中でというよりも、孤独と困難という、いわば、荒野あるいは砂漠のような経験の中でこそ主なる神の言葉を聞こうとしたのかも知れません。わたしたちはイザヤ55章においてもイザヤ40章の8節「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という響きを聞くのです。主の言葉は、「草は枯れ、花はしぼむ」という危機の経験の中で聞き取ることができるのです。
応答讃美歌として、クリスマスを覚え、そこから一歩進んでいく私たちが歌う賛美歌として、新生146番を選びました。喜びと祈りと感謝をもって賛美しましょう。(松見俊)