1: 偽善としての施し
イエス様は、今日の箇所から6章18節までに「偽善」について3つの事柄を通して教えます。一つ目が今日の箇所である「施し」であり、あとの二つは、「祈り」と「断食」となります。イエス様がここで問われているのは「なぜ生きるのか」ということです。偽善とは、「うわべではよく見せているが、実際にはそれが本心ではない」ことです。
神様に愛されて、愛して生きる時、それは憐れみの行為がつながっていくのです。愛された者として本来は当然とされる行為「施し」「祈り」「断食」をすることが当然ではなくなること、いつの間にか、それが特別「善い行為」「すばらしい行い」となっていくことに、まず問題があるのです。
2: 称賛を得ること
人間は褒められること、評価されることによって成長する者でもあります。子育てにおいて褒めることで頑張ろうという気持ちを持たせることは大切なことです。人に認められること、認めてもらいたいという気持ちは、決してすべてが悪いということではないのです。
ただ、「神様のため」「愛され愛し合うことを表すため」という根本的な行動理由がなく「立派な行いを見せよう」とするときに偽善者となってしまうのです。偽善という誘惑に陥ってしまうのです。
3: 称賛を得る苦しみ
称賛されることは、一時的には気分の良いものかもしれません。しかし、それだけを求めるようになる時、それはむしろとても苦しい人生になってしまうのではないでしょうか。褒めてほしい。人生の中心がそれだけになるとき、他者が自分のことをどのように思うのか、びくびくして生きることになるでしょう。これをしていなければ認められない。あれをしてしまえばだれも一緒にいてくれない。何か偉いことをしていなければ・・・最終的には生きていけないと思うようになってしまうのです。
4: 神の報いを得る
「神様が報いてくださる。」それは、神様が愛で、私たちを認めてくださるということです。わたしたちは、ただその存在を愛され、認められているのです。「神様の与えてくださる報い」は、本当の自由を得るということができるのです。神様の愛を知る者は、何をするにしても畏れる必要はないのです。すでに愛されて、認められているからです。神様の報いを得るということは、この自由を与えられているということです。私たちは、今この神様の報いを受けとりたいと思います。(笠井元)