1: 偽善という誘惑
イエス様は「祈り」において「偽善者は会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と言うのです。当時のユダヤの人々は、決まった時間になると会堂や大通りで祈っていました。イエス様は現在の私たちに「あなたが祈っているいつもの祈りの姿は偽善となっていないか」と問いかけているのです。
会堂で祈ること、大通りで祈ることは、ユダヤの人々の習慣でありその決まった祈りの姿に誘惑は忍び寄ってくるのです。誘惑は、人間が神様から離れるように誘いこむ悪の力なのです。イエス様は「今、あなたは何のために祈っているのか」をもう一度確認するように教えられているのです。
2: 何のために祈るのか
わたしたちはなぜ祈るのでしょうか。祈りとは神様との会話です。祈りによって、私たちは生きるのです。祈りによって生きる意味を知り、生きる力と勇気を受け取るのです。だから私たちは祈るのです。
イエス様は「奥まった自分の部屋に入って祈りなさい」と教えます。それはただ場所の問題を言っているのではないのです。祈りは神様と自分との関係をつなげる信仰の行為です。その大切さを教えているのです。
また、くどくどと祈ってはならないと教えます。くどくど祈る時、それはただ自分から一方的に祈るだけの祈りとなっているのです。祈りには、私たちが神様に語りかけることと、神様の御心を聞き求める必要があるということです。
3: 祈られている者
私たちはどのように祈ればよいのでしょうか。イエス様はこの後「主の祈り」を教えました。主の祈りは「わたしたち」のために祈ることを教えています。祈りは「わたしたち」の祈りでもあるのです。私たち人間の交わり、関係をつなげる行為、それが祈りなのです。
私たちは他者の祈りによって支えられて生きているのです。私たちは祈られているのです。イエス様が祈って下さっている。そして兄弟姉妹の祈りによって、生きる力を得ているのです。
4: 祈りを知っていてくださる方
イエス様はこのように言われました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(6:8)神様は祈る前から、私たちの必要なものを知ってくださっておられるのです。
一つには、神様は私たちと会話をする準備ができているということ、もう一つには、神様は私たちの存在を認め、愛してくださっていることを意味するのです。私たちは、神様に愛されて祈っていきたいと思います。何度も何度も繰り返し祈り、生きる命を得ていきましょう。(笠井元)