1: 主の祈り
主の祈りの一言一言には、イエス・キリストの命が込められているのです。宗教改革者ルターは「教会史上の最大の殉教者は主の祈りである」と言いました。主の祈りが、あまりにも私たちに親しく、時には一日に何度も祈るため、なんとなく祈ってしまっていることを指摘した言葉です。
主の祈りによって多くの人間が、慰めを与えられ、生きる勇気と希望を与えられてきました。わたしたちは、この主の祈りを殉教者として、つまり心を無くして祈ることのないようにしたいと思います。
2: 天におられるわたしたちの父よ
マタイにおける呼びかけは、「天」「わたしたち」「父」という三つの言葉に分けることができます。
「天」とは神様の超越性を示します。神様は私たちの想像を超えた方、私たちの理解を超えた、愛と慰めと恩寵に満ちた方であるのです。「私たち」は、「イエスと私」と理解することもできれば、また兄弟姉妹として理解することも出来るのです。神様を「父よ」と呼びかけることは、その関係の「親しさ」を表しているのです。
私たちは「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるように教えられているのです。それは想像を超えた深い愛と恵みのうちにおられる方であり、それでありながらも、わたしたち人間の一番近くにいてくださる方に呼びかけることが許されているということです。
3: 御名が崇められますように
「崇められる」とは、ヘブライ語において「聖とする」という言葉にさかのぼります。「御名が崇められますように。」(9)とは、「神様の人格、本性が聖とされますように」、という意味であり、「私たちの内にあって神様が神様とされますように」と祈ることになるのです。
「神様の御名を汚すこと」は「神様が私を愛してくださっている」という、神様に愛されていることを受け入れないことです。私たちは神様に愛されて、大切な存在として生かされているのです。「神の御名を聖とする」とは神、様によって愛されて、生かされているということを受け入れることです。
4: 神様の愛が表されるために生きる
「神様の御名を聖とする」。「神様の愛を表す」。主イエスは、神様の愛をこの世に実現されたのです。主イエスは、罪ある者の隣で生きて、病に苦しむ者と共に生きたのです。そして最大の愛の姿として、私たち人間のために十字架で死に、復活なされたのです。私たちが「御名を聖とする」祈りを献げることは、イエス・キリストによって表された愛をいただくことから始まるのです。
主イエス・キリストが命をかけて表してくださった愛をいただきましょう。そして、その愛を表す者として生きていきたいと思います。(笠井元)