1.救われた者
エジプトから救いだされたイスラエルが軍隊として戦います。神様から救い出された者に敵対した者はうち滅ぼされることになる。このように理解するのでしょうか。
旧約聖書では神様とイスラエルの民の関係が表さていきます。神様に従う時、神様を裏切り離れていく時、様々なイスラエルの姿があります。そこから人間の「信仰」と「弱さ」「罪」を見ていくことができるのです。そして、ファラオ・エジプトを含め、アマレク人、アッシリア、バビロンなど、その存在は、時に「罪に導く誘惑」としての存在であり、時に神様の御心として、イスラエルを苦しめる存在であり、時に罪に対する警告を行うための存在としてあるのです。
2.レフィディムでの戦い
アマレク人とは・・・アマレク人は、シナイ半島やそれに隣接するパレスティナ南部にいた遊牧民です。 今日の箇所は、アマレク人がレフィディムに来たことから始まります。わざわざレフィディムと記した一つに、この争いが「水の奪い合い」、そしてそれは神様から与えられた水を奪いに来た者との戦いであることを強調しているということができるのです。れはまた、イスラエル自身、つまり人間自身の内側にある罪との戦いとしても受け取ることができるのです。
3.ヨシュアとフル
今日の箇所では、突然ヨシュアとフルという人物が登場します。モーセはヨシュアに戦うことを命令し、フルはアロンと共に、モーセの手がおろされることがないように、モーセの手を支えたのです。
4.神の働き
モーセが手を下げるとアマレクが優勢になり、モーセが手を挙げるとイスラエルが優勢になったのです。丸一日手を上げていることはとても大変なことです。実際に手が重くなり、途中モーセは石に座り、アロンとフルによって支えられたのです。確かに杖は「神の杖」として、そこに神様の働きがあることを示します。同時に、そこにはモーセの努力があり、それだけではなく、アロンとフルの助け、そして実際に戦うヨシュア、イスラエルの人々の力があったのです。
モーセが手を上げていることは、兵士たちに、「ここに神様が共にいてくださる」ことを伝えたのです。モーセが手を上げていることは、神様が共にいてくださる、その保証と信頼を示したのでした。
5.主はわが旗
「主の御座」という言葉は原文では意味不明な言葉となっており、「主の御座」「主の軍旗」と読むことが主流となっていますが、この周りに集まって誓いをした、集合場所、合図だと考えられています。神様の戦いは最終的には、イエス・キリストという自らの命をかけた神様の御業へと続くのです。「主の御座」「神様の軍旗」としてイエス・キリストという十字架が示されていくのです。神様は今も、私たちの罪のために、私たちを救い出すために、命をかけて戦っておられるのです。わたしたちはそのみ座に集まり、その救いを見上げて礼拝するのです。(笠井元)