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2018.3.25 「十字架の上で救い主になられた」 (全文) ルカによる福音書23:32-43

1:  執り成しの祈り

 今日から、受難週に入ります。今週の金曜日は、イエス・キリストが十字架につけられた受難日となり、そして、来週の日曜日には復活の日、イースターとなります。わたしたちは来週のイースター、復活祭にイエス様の復活を共に喜びたいと思います。この、キリストの復活の前に、イエス・キリストの死をきちんと覚える必要があるでしょう。イエス・キリストは、私たちのためにこの世に来られ、共に生きて、共に苦しみを受け、そして十字架の上で死んでくださったのです。イエス・キリストの死という贖いによって、私たちは神様との本当の関係、罪からの解放、愛の恵みをいただく者とされたのです。

 イエス・キリストは今日の箇所34節において、このように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)今日の箇所で、イエス・キリストは十字架につけられました。そして、イエス様は、十字架の上にあって、なお「父よ、彼らをお赦しください。」(34)と、人間の罪の赦しのために祈られたのでした。イエス様の人生は、この言葉に集約されていると言うことができるでしょう。

 イエス様はこのようにも言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)イエス様は、道を外れている者、それは、何か悪いことをしている者というだけではなく、・・・愛を感じることができなくなっている者、人から疎外され、自分は一人ぼっちで孤独だと思っている者、自分の存在を受け止められない者、悲しみの中にある者、苦しみの中にある者、絶望している者・・・そのような人々が生きる力と生きる希望をもう一度得るために、神様の愛に招くために来られたのです。イエス・キリストは、人生の最後の時、自らが十字架の上にある時、その苦しみの中にあって、「彼らをお赦しください」と祈られたのです。これがイエス・キリストの示された、「愛」、救いの祈りです。

 

 イエス様は十字架の上で、他者の救いのために祈られました。イエス・キリストの十字架上での執り成しの祈りは、イエス様がその時、突然に、思いつきのように祈られた祈りではないのです。イエス様の執り成しの祈りは、日々の信仰の中でなされた祈りです。イエス様は、生活の中で日々祈っていました。その日々の祈りから、十字架の上での執り成しの祈りへと繋がっていったのです。イエス様は、日々の生活の中で祈られました。それは、生まれてから宣教にでる時まで、また宣教から十字架までの途上にあって、そして十字架の目前において、そして、ついには十字架の上において、と。イエス・キリストは神様に向かって、絶えず祈り続けておられたのです。

 そして、イエス様の日々の祈りの中、祈りのイエス・キリストとして最後に、祈られた祈りの言葉、それが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)という祈りだったのです。

 

2:  自分を救ってみろ

 今日の箇所では、イエス様の十字架に対して、人々は、「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」「自分とわれわれを救ってみろ」と、ののしり侮辱します。このとき、議員たち、兵士たち、また十字架にかけられた犯罪人の一人、イエス様をののしる者たちが求めたのは、「他者を救う」ことではなく、「自分自身を救うこと」でした。「まずは自分を救ってみろ」「自分を救ったら信じる」というのです。これが、私たち人間の常識、価値観なのでしょう。私たちは「自分のため」「自分を救うこと」ができる者を素晴らしい者と思うのです。この世においては、自分のために・・・力ある者、権力を持つ者。自分を救う能力がある者。自分が不自由なく生きる財産があるお金もち、そのような者が素晴らしい人間だと思うのです。

 今日の箇所における議員たちの姿は、そのような人間の価値観、自己中心という人間の罪の根源が明確に表されており、そして「自分を救い出すこと」ができる者、その者を神として信じるとまで言うのです。しかし、聖書はこのように教えます。「13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。・・・」(Ⅰコリント13:1-3、13)

 聖書は、愛がなければ、つまり他者を愛する心、自分ではなく、他者のために生きるのでなければ、それは何をもっていても「何の益もない」というのです。そして、人生の最後まで、他者と共に生きて、他者に仕え、他者のために命をも捨てていった者。これが、イエス・キリストなのです。イエス様がこの世に来られ、人間として生きた。そして十字架の上で死なれたのです。この出来事は「他者の為」に生きるためでした。ここに神様の愛が示されたのです。イエス・キリストはその人生を通して、神様の愛を示されたのです。そして「他者のために生きる」。この私たちに生きる道を示されたのです。

 

3:  十字架の上で

 今日の箇所はこのように続きます。「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」(ルカ23:40-42)

 イエス・キリストは、自分自身を捨てることによって、他者の救いの出来事を示されたのです。そして、それは執り成しの祈りと共に、イエス様は、共に十字架の苦しみの中にあって、一人の犯罪人を救い出されるのです。イエス・キリストは十字架の上で救い主となられたのです。イエス・キリストは、このとき十字架の上におられました。十字架という一番苦しみの時、痛みの時、そしてなによりも自らが、無力とされる、その中にあって、イエス・キリストは、確かに神の救いを示されたのです。イエス様の隣で十字架の上にいた犯罪人は、そのイエス・キリストの救いを見たのです。一人の犯罪人は、キリストによる恵みを受け取った。この人は、イエス・キリストによる神様の愛に出会っていったのです。この人は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。

 「わたしを思い出してください」。それは、「イエスの祈りの中に覚えてください」ということです。イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という「とりなしの祈り」に、「わたしも入れてください」「わたしも入れられていることを信じます」「わたしを思い出してください」。私たち人間のうちには、イエス様に、「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」と、叫び続ける思い、自己中心的な思いと、「わたしを思い出してください」と他者のために生きることを受け入れる素直な心、両方が入り混じっているのではないでしょうか。「自分のために生きるのか」「他者のために生きるのか」、わたしたちはそのどちらの道を選び生きるのか、選び取っていくのです。イエス・キリストは祈りのうちに、命を捨ててまで、他者を愛されました。わたしたちはこのイエス・キリストに出会っていきたいと思うのです。

 

4:  わたしと共にいる

 イエス・キリストは、私たちにこのように語ります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。楽園とは、どこか素敵な世界、のんびり、バカンスに行くようなところ、南の国のパラダイスのようなところを意味するのではないのです。楽園とは、神の愛を受け取るときに、イエス・キリストと共に生きる時にいただく、心の喜びなのです。そして、その延長上にある神様の愛の完成の出来事なのです。

 「インマヌエルなる主」、「神が共にいる」、という主イエスが、いつも、どこにあっても、私たちといてくださるのです。それが、私たちに与えられた本当の「楽園」、救いの出来事なのです。もはやわたしたちは孤独な存在ではない、生きる意味のある者なのです。愛される必要のある存在なのです。十字架の主イエス・キリスト、そして復活のイエス・キリストが私たちと、今、共に生きて下さっているのです。わたしたちはここに「楽園」をいただく。「愛された存在」としての意味、生きる希望をいただくのです。イエス・キリストは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。その祈りによって、私たちに、生きる勇気を与えて下さったのです。私たちは、今、このイエス・キリストの命をかけた祈りを受け取って、歩んでいきたいと思います。今、イエス・キリストは、私たちのために祈り、私たちと共に生きてくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストの祈りを受け取って、共に励まし合って生きていきましょう。(笠井元)