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2018.4.8 「キリストの変容にあずかる」 (全文) フィリピの信徒への手紙3:20-21

 私たちはイースター(イエス様の復活祭)の余韻の中に生きています。いや、本来の意味で、日曜日毎の礼拝は主イエス様の復活の証のための礼拝であり、今、確実に私たちの中に生きて働かれるお方に導かれているものであると言えます。

 それでは、復活信仰の内実とはどのようなものでしょうか? まず、復活の希望は、単に死んだ者が生き返る「蘇生」とは違います。ドイツ語の「逸話」に「復活」という物語があります。ドイツのケルン大学の医学生であると騙る若者たち数人が何かブツブツ言いながら、ある村に入ってきます。「われわれは人を生き返らせる薬を発明した。ブツブツ、ブツブツ」そして、その村はずれの教会の墓地で、ブツブツ、ブツブツ。すると村人がやってきます。「お願いですから死人を生き返らせないでください。お金を差し上げますので、この村を立ち去って下さい。ようやく死んだお姑さんが生き返ったら、大変です。長い看病の末、ようやく死んだのですから。」また、別の人がやって来ます。「お願いですから死人を生き返らせないでください。お金を差し上げますので、この村を立ち去って下さい。ようやく遺産を残して死んだ夫が生き返ったら大変です。これからは夫から自由で、優雅な生活が待っているのですから」。この逸話をドイツ語の勉強で読んだのですが思わず笑ってしまいました。復活の希望は、単なる生き返ること、「蘇生」とは違います。ただ生き返ることでは、希望にはなりません。ある意味で、この世の悩み、苦しみが終わる死は一つの解放でもあるのでしょう。復活は、また、単に、この世では叶えられなかった願望が叶えられることでもありません。神と人、人と人、人と被造世界の関係が新たに造り変えられ、変容、変貌すること、神の救いの輝きに預かることなのです。

 

1.パウロに倣え

 パウロはフィリピ3:17で、「私に倣う者となりなさい」と勧めています。現在教会でよく用いられる言葉と違っています。教会では、牧師たちは、「私に倣ってはいけません。信徒たちを見てはいけません。躓いてしまいますから」と言います。しかし、パウロは「私に倣え」と勧めます。ギリシヤ本文を読むと、「共にイエスに倣う者になりましょう」と翻訳することも可能です。そのような翻訳も可能ですが、パウロはIコリント11:1でも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と勧めています。するとやはり、「私に倣う者となりなさい」と勧めているように思えます。大切な点は、パウロが倫理的、道徳的、あるいは律法的に正しいと言っているわけではないことです。むしろ、その逆です。パウロはフィリピ3:12では「わたしは,既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とか捕えようと努めているのです」と言い、16節では「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」と言っています。つまり、不完全な自分を自覚していること、自分は救いの途上にあって、巡礼者として生かされていること、キリスト者の完全とは、逆説的に、不完全であることを知っていることであるというのです。そのようなわたしパウロに倣い、「自分は完全なキリスト者である」などと言う人々に倣ってはいけないと言うのです。人はただ一方的な先立つ恵みによってのみ、イエス様の愛によってのみ救われるのでれば、私もパウロに倣って、「わたしに倣いなさい」と言うことができると思います。皆さん、不完全な者であることを知っている、むろん、一生懸命に生きているが、不完全であることを知っているパウロに倣って生きましょう。そして、そのような信仰に生きるとき、「私に倣え」ということができるのです。

 

 2.十字架に敵対している者が多い

 フィリピの教会には、パウロに倣う人たちもいたし、十字架に敵対していた人たちもいたようです。どういうことでしょうか? 十字架に敵対する者とは、自分で自分を救うことができ、自分に栄光を帰する人のことでしょう。力と策略で人を屈服させようとする者たちです。上辺ではニコニコして、いかに成功し、繁栄しているように見えても危ない人です。彼らは根本のところで、キリストの救いを必要としていません。彼ら彼女らは、自らの欲望を神とし、この世における自分の欲望の実現、繁栄、幸福を求めているのです。「彼らの行き着くところ、終わり、あるいは、人生の目標は、滅び」であり、彼ら彼女らは「腹」、つまり、単に食べ物のため、結局、滅ぶべきもの、永遠のものではないものを神としており、恥ずべきものを誇りとしているというのです。これは最後の審判の時にしか明らかにならないことでしょう。自分は成功者であると思っている人は神の審判の前では「恥を受けるのです」。恐ろしいことです。私たちは、むしろ、自分で自分を救うのではなく、力と策略で人をコントロールするのではなく、他者の弱さ、悩み、苦しみに寄り添う者になりたいものです。キリストの受難はパッション=情熱と言いますが、それに応答する生き方は他者にコンパッション=共感共苦する生き方、十字架の陰に生きる人たちと連帯する生き方です。十字架に敵対している者が多い、「喜びの手紙」と呼ばれ、模範的フィリピの教会でさえ、「十字架に敵対している者が多い」と「今また涙を流しながらに」語るパウロの言葉を心に留めましょう。

 

 3.クリスチャンの市民権は天にある

 パウロはユダヤ人でしたが、ローマ帝国の市民権を所有していたと思われます。バプテスト教会のマルティン・ルーサー・キング牧師は、黒人の「公民権運動」に携わり、銃弾で倒れましたが、「市民権」「公民権」(ポリテウマ)とはその人が人として尊重され、自由に生きる権利です。人はどこかの国の市民権を持っています。先日テレビで放映していましたが、戦争で死んだことになっていて、日本の戸籍がない人の話を聞きました。市民権がないことは大変なことです。人は通常、この世界のどこかの国の市民権を持っていますが、クリスチャンの市民権は天にあるとパウロは言います。天とは、目には見えませんが、キリストの到来と共に確かに来たりつつある現実性のことです。天とは、すでに神のみ心がなっている処です。そして、十字架で殺され、よみがえらされたイエス様は、かの日に、今度は、すべての人に明らかになるようなかたちで、救い主として来臨されます。それが私たちの希望です。私たちはこの希望によって生きています。当面私たちは二重の国籍を持って、一つは天に、もう一つはこの地上に国籍を持って生きているのです。クリスチャンの本国は天にあるということがどれほどの喜びになっているでしょうか。このことを考えると本当に嬉しいことです。私たちは目に見えない世界の市民権を持っているのです。

 

 4.卑しいからだからキリストと同じ栄光のからだへ変えられるであろう!

 ここで「からだ」とは肉体のことではありません。からだとは、私という人間全体のことであり、神と人、人と人、人と被造世界との関係の中に生きる全体としてのわたしのことです。「わたしたちの卑しい体」とは、人間関係に傷つき、人を傷つけ、悩む私たちのことです。「卑しい」(タペイノーシス)は、あのキリスト賛歌では、フィリピ2:8で「へりくだって」と翻訳された言葉(エタペイノーセン)と同じ言葉で、低くされ、ペシャンコにされ、死に定められている私たちの現実そのものを意味しています。このわたしたちは、主イエスが再び来られるとき、キリストと同じ栄光のかたちへと変容されるであろう。日本語の翻訳は明確ではありませんが、これは、あくまでも将来の希望です。しかし、私たちの今、現在を決定づけている将来です。そのときにこそ、そのときにのみ、私たちはキリストの栄光のかたちに造りかえられるのです。その時までは、この卑しいからだを慈しんで生きねばなりません。簡単に死んではいけません。悲しむ人がいるでしょう。やがて、キリストの栄光のかたちに変えられるのですからそんなに慌ててはなりません。

  ある時、質問を受けました。「松見先生、私が天国に行ったとき、1945年の東京大空襲で死に別れた妹は老人になったこの私を分かるのでしょうか。」と。私は答えました。「私は天国に行ったことがないので、良く分かりませんが、イエス様は『名を呼んで連れ出す』と語っているので、妹さんもあなたを、あなたも妹さんのことが分かりますよ」と答えました。自分ではまあ、適切な答えかなあと思っていたのです。しかし、1週間後に聞いたところによると物を捨てることのできない妻に、足の置き場もないほどどうでも良いようながらくたで混雑した生活に嫌気がさして、天国で、あるいは復活したときに会いたいのは、自分の妻ではなく、妹なんだ、ということだったらしいのです。そうであれば、私の答えは、トンチンカンな答えでした。一言、「どうして、そんなことをお聞きになるのですか」と聞き返したら、彼の胸の内を話してくれたかも知れません。人は答えを求めるより、心の襞にある想いを聴いてもらいたいのでしょう。人は病気を治すこと(cure)はできなくとも、care(世話をすること)はできるはずです。キリストの栄光あるからだと同じ形に変えられるであろうと希望して生きる私たちは、互いに当面は、卑しい体に生きる仲間同士として、他者に寄り添う者として生きたいものです。他者はあなたを必要としていること、少しでもできることがあることを喜びたいものです。(松見俊)