1. 偶像礼拝
十戒の第二戒は「偶像礼拝」の禁止です。偶像礼拝は神様への不従順を意味します。偶像礼拝は神様の超越性を否定します。偶像は動かず、語ることも、聞くこともない、痛みや喜びを感じることもなければ、考えることもないのです。神様は熱情の神です。神様は熱い思いをもって人間を愛されている方なのです。
偶像というものはとても不思議なものです。イザヤ書では「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。」(イザヤ44:15)と教えます。
普通に考えれば偶像なる神様を造ることは、とてもばかげていることだと思うのです。しかし世の中ではたくさんの偶像が造られ、偶像を礼拝しているのです。実は、偶像を造ることは、自分たちの理解を越えた存在があることを感じ取っている、しかしそれが何なのか、見ることができず、わからない。その中で、その存在を理解しようとして偶像を造っているのではないでしょうか。
2. 偶像を造りだす生き方
キリスト教では、十字架を救いの象徴としています。十字架を見ることによって神様の愛を思い起こすのです。しかし、十字架自体が拝められるものとなることもあるのです。教会という建物、礼拝の形、教会の運営方法など、本来はそれらによって神様を見上げ、賛美するはずのものが、それ自体、そのようなもの自体に関心が集まってしまうことがあるのです。
ここでは偶像は形造った刻んだものとして表されているのですが、神様ではなく、別のなにかを神様としてひれ伏し、拝む、それが偶像礼拝なのです。わたしたちは今、何に仕えようとしているでしょうか。
イエス・キリストはどこまでもへりくだり、自分を無にしてまで、神様に仕える者となられたのです。これが主イエスの生きた道です。そして、私たちに示された、生きる道です。
3. 主の名をみだりに唱えてはならない
「みだりに」という言葉は「実態を伴わない」「むなしい」「偽り」「うわさ」「取るに足りない」ということを表す言葉です。
神様は出エジプトの業をなされるためにモーセに自らの名を知らせました。(出エジプト記3:14、15)名前を呼び、呼ばれるということは関係を生み出します。自ら奴隷の民から名前を呼ばれる者となられたのです。神様は、奴隷であるイスラエルとの関係を持たれたのです。
「主の名をみだりに唱えてはならない」。それは神様との関係を、人と人との関係を破壊するように生きてはならないということです。私たちは、神様の名前を呼ぶとき、自分の信仰が「実態を伴わない」「むなしい」「浅はかな」ものとなっていないか、確認していきたいと思います。(笠井元)