1. 休むこと
もともと週を7日間としていったのは、ユダヤ人ではなく、バビロンに遡ると言われています。この7日間において「安息日」を持ち、神聖な日を持つようにしたのはユダヤ人とされています。安息日の根本姿勢は名前の通り休むことです。休みをとることは生きるのに必要なことです。
ユダヤの民は休む根拠を「神様が休まれた」こととしました。休むこと、立ち止まることは命を育むための大切な時なのです。働くこと、忙しくすること、何かをすることだけで、何かを作りだしているのではないのです。休むことは創造の一日です。「神様は休まれた」、その一日を含めて創造がなされた。同様に、人間もまた休むことで、命を育んでいくのです。
2. 仕事をしてはならない
「いかなる仕事もしてはならない」という言葉はこのあとユダヤの民を間違った道へと進ませました。この戒めを守るために、「仕事とは何か」という規定を細かく作り上げていったのでした。荷物を運ぶことは仕事とされました。火をつけること、ランプを動かすこと、旅に出かけること、食事の用意をすること、癒すことも「仕事」とされ禁止されたのです。病気やけがの治療もしてはいけません。
それに対して、イエス様は「27 安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。28 だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)と言われました。
3. すべての者が休む
「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も」と教えています。安息は自分だけのものではないのです。「あなた」「息子、娘」それだけではなく、「男女の奴隷、家畜」、「あなたの町の門の中に寄留する人々」と幅は広げられていくのです。安息はただ自分が休むことではないのです。休むことは、その恵みを分かち合うこと、他者を思いやることです。
4. 安息日と主の日
キリスト者はイエス様の復活の日を大切にし、週末の安息日ではなく、週の初めの日、日曜日を主の日とするようになりました。ただ本当のところは、どの曜日は聖であり、どの曜日が汚れたと考えるものではないのです。すべての日が大切であるため、どこかだけを大切にするのはないとすると、だんだんとどの日も大切にしないことにつながっていってしまった、これが人間の弱さです。
休むことはごろごろとしているだけが休むことではない。わたしたちが心から安息をいただくことは神様の御業に触れる時です。「主の日」を、神様に目を向ける特別な時とし、日々の生活の喜びを得ていきたいと思います。