1: 花の日礼拝
今日は、花の日礼拝です。花の日礼拝というのは、今から150年ほど前に、アメリカのメソジスト教会において始まったとされています。花の日礼拝の始まりとしては、もともとは、子どもに信仰が与えられるために、子どもを中心とした礼拝として「子どもの日」を始めたことから始まったようです。その後、この「子どもの日」の時が、一年の中でも最も花がたくさん咲く時期であったことから、子どもたちが花のようにすくすくと育つことを願い、祈る日として、「花の日礼拝」が始まったのです。そして、「花の日礼拝」では各自が花を持ち寄り、教会で礼拝をしたあとに、子どもたちが花を持って訪問し、そのことを通して、「感謝」と「奉仕」の思いを学ぶ日としても行うようになっていったのです。
私たち東福岡教会では、この花の日礼拝を6月の第1週に持っています。皆さんが多くのお花を持ち寄ってきてくださったことを感謝いたします。礼拝後には、さまざまな事情のため、教会に来ることができない方々のために、訪問していきたいと思います。
「訪問する」ということは、他者との対話に出て行く行為です。普段、私たちは、日曜日に教会に来て礼拝をします。神様に向かい、御言葉をいただき、共に祈るのです。神様との関係に生きる、その愛をいただいて、新しく一週間を歩みだすのです。そのうえで、訪問するということは、いただいた神様の愛を自分自身の中から、他者に向けていく一つの行為となるのだと思います。訪問という行為は、他者と向き合い、隣人となるために一歩、歩き出した行為と言うことができるでしょう。私自身、行こうと思っていても、行きたいと思っていても、時間的な余裕もなく、なかなか訪問に行くことができていない中で、「花の日」に訪問することができることは、とても嬉しい時となります。
是非みなさん、今日、この礼拝の後に、共に、訪問に行きたいと思います。ただ、「行きたい」という思いがあっても、様々な理由から、なかなか行くことができないという方もおられると思います。そのために、今回はお手紙を持っていきますので、是非一言、お書きください。そしてなによりも兄弟姉妹として、お互いのために、日々祈り続けていきたいと思います。
2: 空の鳥、野の花を見なさい
さて、今日の聖書の箇所ではこのように言います。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。」(28)
神様は、「空の鳥、野の花をよく見なさい」「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」と言われます。ここでは「空の鳥」「野の花」がまったく価値がないと言っているのではありません。神様は「空の鳥」、「野の花」を用いて、「取るに足りないもの」「小さい存在」のことを表しているのです。この「取るに足りないもの」「小さく、この世において価値のない」とされているもの。そのようなものをも、神様はしっかりと覚えてくださっている、「空の鳥」を養ってくださるように、どれほど小さな者でも、神様は愛してくださっているのです。
空の鳥は「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。」、そして野の花は「働きもせず、紡ぎもしない。」と言います。実際、鳥や花が何もしないかと言えば、そうではありません。空の鳥も、野の花も一生懸命生きています。しかし、それでも、その命の基には、神様の御手、神様が養ってくださっているという、命の御業があるのです。ここではその神様の命の業を教えているのです。神様はこの世に置いて、小さく、取るに足りないとされるものでも、また逆に、この世ではとても大切にされており、何よりも必要とされているものでも、どちらも、その一つひとつすべての命を差別なく、大切な存在として、命を与え、日々の生活を守り、生かしてくださっているのです。
聖書が教える、神様とは、創造主なる神様です。この世界を創り、命を創り、今も、一分、一秒でも、神様から離れて生きることはできないのです。神様の意志なくて生きることができる者、また起こされる出来事はないのです。どれほど傲慢な者であっても、どれほどの権力者であっても、どれほど弱く小さな存在でも、また、出来事として、とても嬉しいことも、逆に悲惨で見ることができない、「なぜこのようなことが起こされるのか」という出来事でも、そこには、必ず神様の意志があるのです。ただ、この苦しい出来事にぶつかる時に、私たちは神様の存在を認められない、また認めたとしても、神様の愛を受け入れられないこともあるのです。
先日から朝の祈祷会では、創世記から学んでいます。その中で、学んだ言葉を少し読みたいと思います。
「私たちの世界に光が存在する。それは神が最初に「光あれ」と言われたからです。そこに神の意志があったからです。そうでなければ光は存在しませんでした。私たちはこの光のもと、神の意志のもとで生きていることを感謝したいと思います。暗闇の中を歩んでいるように感じている方もあるかもしれません。真っ暗闇ではなくても、自分の人生、生活には翳り(かげり)があると、感じておられる方は、少なからずあるのではないでしょうか。だんだんこの翳り(かげり)のほうが強くなって、やがて自分の人生を覆い尽くしてしまうのではないかと、不安になります。しかし、勇気を出して、上を向いて歩んでいきましょう。光が勝つのです。・・・勇気をだしましょう。やがて光が全体をおおい尽くす日が来るのです。」(松本敏之「神の美しい世界~創世記1~11章による説教」p.29-30)
神様はこの世界を創られました。そしてその一番最初に「光あれ」と言われました。神様は一番最初に「光」を創られたのです。私たちは時に、「自分の人生に翳り(かげり)を覚え、その命が闇に覆われてしまうのではないか」と思うことがあるのではないでしょうか。突然、病気になったとき、事故にあったとき、または自然災害によってこれまでの生活が失われた時など、この世には多くの悲しみ、「闇」の出来事と言ってよい嘆きがあるのです。そのような時に、私たちは、その人生のすべてが闇に覆われてしまったと感じてしまうこともあるでしょう。
そのような私たちの人生に、神様は「光あれ」と言われます。これが神様の意志です。神様はなによりもまず光を創造されたのです。闇は光を飲み込むことはありません。闇の中において、何もない、無から光が創造されたのです。私たちの命は「闇」から「光」へ向かっているということを覚えたいと思います。
3: 何を求めているのか
聖書は、「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(26)そして「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(31)と教えます。
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(31)この言葉は、私たちが人生において何も計画せず、備える必要がないということではありません。もちろん、食べ物、飲み物、着る物のために働き、未来の人生を考えて、備えること、蓄えることはとても大切なことです。ただ、そこには限界があるのです。どこまで人生を計画し、備えても、私たちの命のすべてがその計画通りに行くことはないでしょう。どれほど完璧だと思う人生設計をしていても、私たちの思いを超えた出来事が、必ず起こるのです。そのうえで、聖書は、神様が鳥を養うように、私たち一人ひとりの命を養ってくださっているという、根本的な命の出来事について、教えているのです。私たちは、自分で生きているのではなく、神様によって生かされているのです。これが聖書の教える命の考え方、価値観です。
神様は、私たちの命を愛し、そして生きる道を整えて、光で照らしてくださるのです。私たちが「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と考える前に、すでに神様は、「私たちの必要」を知って、備えくださるのです。
そして聖書は続けてこのように教えます。「6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」聖書は、私たちに「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(33)と教えているのです。
「神の国と神の義」これが、私たちに一番必要な事柄なのです。これは、先ほども言いましたが、「神様に生かされている」という価値観を持つことです。神様はこの「何よりも、まず、神の国と神の義」を求めなさいと教えます。
私たちは日々の生活の中で、一体、何を求めているでしょうか。困ったときに、何を求めるのでしょうか。「闇」に覆われてしまっていると思うなかにあって、何を求めるべきなのでしょうか。
私自身で、考えてみますと、やはり「何を食べようか」・・・と言ったこの世における、自分にとって必要なもの、それがどのようにしたら手に入れられるか、満足できるかということばかり考えてしまっています。
そのような私たちのために、そのような私たちだからこそ、神様は、御子イエス・キリストをこの世に送って下さいました。これは、神様がご自身の満足のためになされたのではありません。私たち一人ひとりのため、その人生が光と喜びで満ち溢れるものとなるため、私たちの必要が満たされるためになされた、神様の愛の出来事です。 神様は、私たちの必要を知り、生きる道を知る方です。そして私たちの命に光が差し込むために、未来を切り開いくために、イエス・キリストを送って下さいました。これが、神様の命をかけた御業です。私たちの人生は、神様の熱い思いによって、必要なものが備えられているのです。私たちはなによりもまず、この神様の御心を信じて、求める者とされていきたいと思います。
4: 神様に従う
私の友人に、大きな事故にあって、一度、体が思うように動かなくなってしまった人がいます。 その友人は、よくこのように言っていました。「もともと、自分はある程度何でもできたから、・・・(私から見ても、本当に何でもできる人で、尊敬する人、憧れの存在でした)、だから自分が頑張れば、自分のしたいこと、やりたいことは、なんでもできると思っていた。「やれば、できる」と思っていた。ただ・・・その思いは、一つの思いもよらないこの事故で、すべてが失われてしまった。「何もできない」。そのようなことが起こるなんて思ってもいなかった。もう、自分で自分の人生を切り開くことはできない。それが事故によって与えられた思いだった。そして、そのとき、本当の意味で、自分が自分では生きることはできない存在であることを知らされた。自分では未来を作りだすことなんてできない。明日の命さえも本当は自分にはどうすることも出来ないんだと。自分は生かされている存在であることに気が付かされた。自分の命は、神様が与えてくださった命で、自分の人生は神様の御心のうちにあり、それは自分のためではなく、神様のため、他者のためにあると、気づかされた。そしてこの「神様に生かされている」と信じる中に、本当の意味で、未来に『光』が見えたんだ。」
この話を聞く時に、私は、いつも「闇の中にある光」を見るのです。大きな事故によって、体が動かなくなったという、この世の価値観でいえば、苦しく、闇につき落とされたような出来事が与えられた。その中で得た、「光」「希望」です。私たちはもちろん計画し、準備して、そして努力し、生きていくのです。しかし、私たちが未来に本当の意味で「光」を見るためには、自分の力で頑張って生きていくだけでは不十分なのです。あくまでも、私たちは生かされている者です。その命を創り、人生の未来を切り開いてくださるのは、「神様」です。自分の正しさ、自分の能力、自分の財産だけでは、未来に本当の光を見ることはできないのです。わたしたちが一番にするべきこと、それは、神様によって生かされているという、その神様による命の恵み、愛の業を信じることです。命の創り主、創造主なる神様の御言葉に聞き従う時、私たちは本当の生きる希望を見ることができるのです。
わたしたちは「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(33)ていきたいと思います。まず、なによりも神様の愛をいただきたいと思います。そこに本当の光が与えられるでしょう。
今日は、花の日礼拝です。神様は、どれほど小さな存在であっても、愛して、生かしてくださっているのです。私たちは、小さな花から、自分自身が神様に生かされていることを再確認したいと思います。そしてこの、神様の愛を喜んでいただき、共に分かち合っていきましょう。(笠井元)