使徒パウロは3章2節で「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちに警戒しなさい。」と言います。「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」と畳み掛けるように翻訳されていますが、ギリシヤ語の本文は3つとも同じ言葉、単純に良く「見なさい」(blepete)と言う言葉が用いられています。スイス留学の際に、子どもたちが通う村の通学路の横断歩道には「luge」、「見なさい」と書いてありました。左右というか、右側通行ですから、右左を良く見なければ車に轢かれてしまいます。パウロは何に対して「注意せよ」と言うのでしょうか?
「自分の正しさを誇り、他者を裁き、他者に重荷を負わせる者たちに注意せよ」ということであり、「ただイエス・キリストの恵みを信じて生きているかに注意せよ」ということです。パウロは3節では「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」と言いますが、私たちは自分の人生において何を誇りとし、何を追い求めているのでしょうか?私が私であることを何が保証しているのでしょうか? 私も70歳になり、人生の終わりが少し見えてきました。東福岡教会には年配者も多くいます。自分の人生で何を頼りにし、何を追い求めて来たかを問われています。あるいは、まだ若い、あるいは子供たちはこれから何に注意し、何に信頼し、何を求めて生きるのでしょうか?
1 「割礼」を誇る者たち
パウロはここで、「割礼」を誇る者たちに警戒せよ、と言います。「割礼」とはユダヤ人であることのしるしとして泌尿器の皮膚を一部切開あるいは切除することで、古代社会では広く行われていた習慣でした。日本でも最近採り入れられているようですね。あまり風呂に入る習慣のない文化の中では、衛生的なことであったのかも知れませんが、ユダヤ人がユダヤ人であることのしるしとして大切にされてきました。ナチスドイツはユダヤ人を600万人殺したといわれていますが、男性のパンツを脱がせばユダヤ人であることがばれてしまうほどユダヤ人男性は皆割礼をしています。ここで、「切り傷に過ぎない割礼」と言われていますが、「割礼」(peritomē ペリトメー)と「切り傷」(katatomē カタトメー)という語呂合わせが用いられており、単なるかたち、習慣としては、「入れ墨」など、本来体に傷をつけることは祭儀律法で禁止されていた行為に過ぎないとパウロは嫌味を言っているわけです。
ここでは、イエス様の一方的な恵みを信じてキリスト者になった者が、ユダヤ教の律法に忠実に割礼を受け、それを他のクリスチャンたちにも強制した人たち、あるいは、まず、ユダヤ教に改宗して、それからクリスチャンになるように勧めていた人たちを指しているようです。私たち日本人には馴染みのないことかも知れませんが、「宗教的思い上がりは、ユダヤ人の専売特許ではない。パウロに『気をつけよ』と叫ばせたものは、律法そのものではなく、人が義とされる根拠として中心に引き出された律法である」とクラドックと言う神学者が言っていますが、自分の正しさを誇り、意識的に或いは無意識に、他者にそれを強制することは誰にもある危険であると言えるでしょう。問題は私たちの弱さではなく、ある種の宗教的情熱、強さなのかも知れません。
2 あの犬ども
「あの犬ども」、「よこしまな働き人たち」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」と言われています。
過激で、ちょっと品位がない表現です。私はネコとイヌとどちらが好きかと言われるとイヌ派なのですが、犬は、ユダヤ文化では不浄な、軽蔑された動物でした。現在でも、権力の「犬」とか 「負け犬」「(yellow dog)= 臆病者」などと言う言葉もありますし、「(Go to the dogs )=犬に成り下がる、落ちぶれる」という表現があります。先日、ギリシヤを旅行してきましたが、ギリシヤの犬は実に、だらしがなく、熱いせいもあるのでしょうが、道端に死んだブタのように腹を出して寝転がっているのを見ました。死んでいるのじゃないかを思ったほどでした。「おい、昔は「狼」だったのだろう、もっとシャンとせい」と言いたいような気分でした。まあ、それはどうでも良いことですが、この過激な言葉は、実は、パウロの敵対者が、ユダヤ人であることを誇り、異邦人たちを馬鹿にして「犬」呼ばわりしていたのを、「その言葉はそのままあなたたちに返すよ」ということなのかも知れません。そう考えるとパウロの品位を保てるかも知れません。このような言葉を使ってでも、注意せねばならないことがあったのです。
3 パウロの肉の誇り
パウロは、信仰によって生きる「わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリストを誇りとし、肉に頼らないからです」というのです。人間的な視点、肉の視点からすれば、自分に誇りがないわけではない、いや、ある、と言います。最初に挙げられた、3つは努力なしに受け取った、運命的な宗教的特権です。8日目の「割礼」、そして、神の選びの民であるイスラエル人、イスラエルを形成していた12部族連合の中では、ベニヤミン族でした。つまり、約束の地パレスチナで生まれ、ヨセフと共に愛妻ラケルの子で、エジプト脱出の際、最初に紅海に足を踏み入れた勇敢なベニヤミン部族、あのサウル王を排出した勇猛果敢な部族、ユダヤ人の中で特別の尊敬を受けていたベニヤミン族の末裔です。パウロはギリシヤ語を話しますが、ヘブライ語を話して家族の中で育ち、ギリシヤ文化に毒されてはいないという誇りがありました。あとの3つは、信仰的な自分の選び取りです。ファリサイ派は、敬虔で、律法に熱心な人々であり、彼は当時の博学ガマリエル門下で、日本社会で言えば、東京大学法学部出身と言ったところでしょうか。また、その熱心さは折り紙付きでイエスとその教会を狂ったようにして迫害したほどでした。旧約聖書の律法を守ることにおいては非のうちどころがないものである、と言います。このように言えたら大したものですが、パウロにはそのような自負がありました。皆さんは、何を誇りにしていますか?家柄でしょうか、学歴でしょうか、キャリアというか職業でしょうか? パウロはそれらのものを決して否定はしていません。私たちもそのようなものを否定する必要もありません。誇りを持つことは悪いことではありません。しかし、それはあくまで、肉の誇り、人間的誇りです。信仰に比べたら何ということもありません。逆に、信仰に生きていないと、それらのものは何か臭い、嫌なものになってしまうことでしょう。
4 価値の一大転換:キリストのゆえに
しかし、パウロには人生の一大転換が起こりました。イエス・キリスト、イエス・キリストによって現わされた一方的な神の愛を知らされたのです。ダマスコ途上でのイエスとの出会いの出来事です。そして、その圧倒的な喜び、素晴らしさに比べたら、自分の誇りなど何物でもない、と思うようになったと告白しています。いやむしろ、それはかえって損失であると言います。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった」と言います。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」いずれも完了形が用いられており、そう思ったこと一大転換が今でも続いている、益々そう考えていることを示しています。そしてそれは、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」という明確な目標があるからでした。ここでは「利益」(kerdē)と「損失」(zēmian)という経済・商業用語が用いられています。7節の「有利」とは「利益」のこと、8節の「キリストを得る」の「得る」(kerdēsō)も同じ言葉です。7節の「損失」、8節の「一切の損」も、「すベてを失った」(ezēniōthēn)も同じ言葉です。この「利益」と「損失」の大逆転が、「キリストのゆえに」、「わたしの主イエスを知ることのすばらしさに」、そして、「キリストを得」、「キリストの内にいる者と認められるために」と徹頭徹尾「キリスト」のゆえに、が強調されています。私たちはこのような価値観の転換を経験しているでしょうか? しているはずです。しているはずですが、どうも自分の誇りや自分の主張が前面に出てきて、この圧倒的な喜び、すばらしさが霞んでしまっているのかも知れないと考えさせられます。私たちは、圧倒的な価値の転換、キリストに愛されていることを経験したはずです。
5 信仰による義に生きる
パウロは、「キリストの内に生きる者と認められること」を求めて生きています。生きる根拠、生きるエネルギーが自分の中にではなく、キリストの内に、キリストとの関係の中にあるのです。このことを「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と言い換えています。義とは人の性格や徳のことではありません。これは神と人、人と人の、いや今日では人と世界を含めた正しい「関係」のことです。
パウロは2種類の義について語ります。一つは「律法に由来する」あるいは「倫理や道徳に由来する、「私の義」です。律法が人に救いを与えるという前提は誤りであり、結局は自分の義となり、優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたり、他者を裁く不自由に陥ります。他方は、「キリストへの信仰による」あるいは、「キリストの信仰による」義、「神に由来する義」であり、神から与えられる神との正しい関係です。人は何をするにせよ、だれであるにせよ、神のみ前でこの信仰が問われるのです。これはまさに恵みであり、また、恐ろしいことです。やがて死すべき人間は、究極的にはその信仰だけが問われるのです。教会が教会であり続けることには信仰だけが問われます。そして、いまこれが分かればなんと楽になることでしょうか。信仰による義に生きること、これが私たちの人生の課題です。
6 復活の希望の中で
パウロは「キリストを得ること」、「彼の中に見いだされること」と並んで、「キリストを知ること、彼の復活の力を知ること、そして、その苦しみにあずかること、この3つのことをその死の姿と同じ姿になりながら欲している」、そして第4のこととして、「何とかして死者の中からの復活に達したい」と言います。今を生きる私たちには困難も苦難もあります。しかし、それらは、復活の力を知ることと死者の中からの復活に達したいという希望のサンドイッチの中に起こることなのです。
この復活の希望、キリストに見いだされ、愛されているという圧倒的喜びが、私たちが抱える問題、私たちが直面する人間のあらゆる暗さに圧倒されないように祈りましょう。教会が教会であり続けることができるように、私たちがクルシチャンであり続けることができるように祈りましょう。 (松見俊)