パウロは3章2節で「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」と畳み掛けるように言いますが、何に対して「注意せよ」と言うのでしょうか?「自分の正しさを誇り、他者を裁き、他者に重荷を負わせる者たちに注意せよ」ということであり、「ただイエス・キリストの恵みを信じて生きているかに注意せよ」ということです。
1.「割礼」を誇る者たち
ユダヤ人にとっては「割礼」が誇りであり、こだわりでした。「宗教的思い上がりは、ユダヤ人の専売特許ではない。パウロに『気をつけよ』と叫ばせたものは、律法そのものではなく、人が義とされる根拠として中心に引き出された律法である」とクラドックは言いますが、問題は私たちの弱さではなく、ある種の宗教的情熱、強さなのかも知れません。
2.あの犬ども
ちょっと品位がない表現ですが、この過激な言葉は、パウロの敵対者が、ユダヤ人であることを誇り、異邦人たちを馬鹿にして「犬」呼ばわりしていたのを、「その言葉はそのままあなたたちに返すよ」ということなのかも知れません。
3. パウロの肉の誇り
パウロは、人間的な視点、肉の視点からすれば、自分に誇りがないわけではない、いや、「ある」と言います。皆さんは、何を誇りにしていますか?家柄でしょうか、学歴でしょうか、キャリアというか職業でしょうか? それらを否定する必要はありません。
4.価値の一大転換:キリストのゆえに
しかし、パウロには人生の一大転換が起こりました。イエス・キリスト、イエス・キリストによって現わされた一方的な神の愛を知らされたのです。そして、その圧倒的な喜び、素晴らしさに比べたら、自分の誇りなど何物でもない、と思うようになったと告白しています。いやむしろ、それはかえって損失であると言います。
5.信仰による義に生きる
パウロは、「キリストの内に生きる者と認められること」を求めて生きています。生きる根拠、生きるエネルギーが自分の中にではなく、キリストの内に、キリストとの関係の中にあるのです。信仰による義に生きるのです。
6.復活の希望の中で
今を生きる私たちには困難も苦難もあります。しかし、それらは、復活の力を知ることと死者の中からの復活に達したいという希望のサンドイッチの中に起こることです。キリストに見いだされ、愛されているという喜びが、私たちが抱える問題、私たちが直面する人間のあらゆる暗さに圧倒されないように祈りましょう。
(松見俊)