1 殺してはらならない理由
ここで使われている「殺してはならない」という言葉は、動物を殺すことには使われず、何か暴力的な行為において使われ、神様を主語としては使われていないのです。「殺してはならない」ことは「なぜなのか」、それは「命は神様によって創造された。神様が創造された命を、人間が自分勝手に扱ってはいけない、人間は神ではない」からです。これが「殺してはならない」理由です。
神様がいない社会では、「殺してはならない」という価値観を多くの人が共有しているから、自分がされたくないことだから、未来を奪うことになるから・・・と教えています。
2 殺す理由
「殺す理由」は沢山あります。「戦争」、「死刑」、「自死」、「安楽死」、「尊厳死」など。「殺してはならない」理由は「神様が創造された命であるから」と単純明快なのです。
ただ、実際の現実においては、神様を信じている人が、自分の信じる神様のため、神様の意志として「戦争」を「正しい」として行っています。また医療技術が進んだ現代において「尊厳死」をどのように考えるかというのは、この今日の箇所でいえば、そこに「暴力行為がある」とは言えないと思うので考えさせられます。
3 イエス様の教え「腹を立ててはならない」
マタイ5:21-26
イエス様は、「殺してはならない」ことを心の問題まで深めていったのです。「殺してはならない」。そしてイエス様は、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」と、「隣人との関係の回復」を求めるのです。「殺してはならない」。そこには「共に生きよう」「お互いを大切にしよう」という意味があるのだと思います。
4 姦淫してはならない
「姦淫してはならない」(14)。これはある意味「殺してはならない」と同じといっても良いでしょう。「姦淫すること」は他者の人格を破壊し、人間としての存在を否定していることなのです。
姦淫の定義は、時代、文化、宗教によって、それぞれ考え方が違うものとなります。ただその基本的考え方は同じもので、お互いの人格を尊重しないで生きるときに、姦淫の罪に陥っていくことになるでしょう姦淫とは、「暴力行為」として人を「殺す」ことと同じです。
「姦淫してはならない」。積極的に言えば、健全な異性関係を築いていく必要がある。お互いを大切にする関係を作る。お互いがお互いを理解し、向き合い、共に生きるということです。「隣人を自分のように愛し合いなさい」。神様が人間を愛した。だからお互いに愛し合う。共に生きる関係を築いていくのです。(笠井元)