1: パウロとアポロ
聖書は「3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(3:6)と教えます。この「成長させてくださるのは神です」という言葉は、幼稚園の看板にも書かれているとても有名な言葉です。この言葉は、聖書の流れから読み取ると、「教会を成長させてくださるのは神様である」ということを意味していて、「成長」の基本的対象は「教会」となります。
ただ、「世界の創り主であり、贖い主である、神様」という存在から、もう少し視野を広げてみますと、「成長させるのは神です」という言葉から「神様が世界を創り、今も、守り、今も、私たちを、成長するために命を与えてくださっている」と聞いていくこともできるでしょう。
そうしますと「成長させるのは神です」という言葉は、私たち人間に向けて、そのほか、この世界全体に、またさまざまな組織、社会、自然などに向けても語られている言葉として聞いていくことができるでしょう。確かにこの言葉「成長させてくださるのは神です」という言葉は、神様が、この世界を創り、命を造り、そして命を養ってくださっているという、大切な言葉なのです。
今日はそのうえで、まず、この聖書の言葉が教えた、状況、人間関係を見ていきたいと思います。今日の箇所はⅠコリントの信徒への手紙という箇所で、パウロという人が、コリントの教会に宛てて記された手紙の言葉となります。このパウロ、アポロ、そしてコリントの教会について少し説明をしたいと思います。
パウロについて簡単に説明しますと・・・パウロは、もともとは熱心なユダヤ教徒でした。パウロは熱心なユダヤ教徒でしたので、キリスト教に改宗することを赦せず、キリスト教徒になる人を捕まえ、縛り上げていました。しかし、キリスト教徒を捕まえに行こうとしていた、そのパウロ自身が、イエス・キリストに出会い、キリスト教徒となっていったのです。パウロの大きな働きは、コリントの教会をはじめ、さまざまな教会を作ったということ、そして今日の聖書の言葉のように、様々な教会に手紙を書いた、ことになります。これがパウロという人物です。
また、アポロですが、アポロもまたユダヤ人であり、聖書に詳しく、イエス様のことを熱心に、そして正確に伝えていた人物です。特にアポロは「雄弁者」であったとされ、「話」をするのがとても上手だったのです。アポロは、パウロがコリントの教会を作ったあとに、コリントの教会にきて、イエス様の事を、わかりやすく、丁寧に、そして正確に伝えていった。これがアポロです。
まさに、パウロがコリントの教会を作り、その後アポロがこのコリントの教会の指導者として、教会を育てていったのです。 これがパウロとアポロ、そしてコリントの教会の関係です。
2: 成長のために
そして、当時のコリントの教会では「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」(4)と言いあっていました。つまり、創立者パウロと、その後の指導者アポロのどちらにつくか、どちらが正しく、どちらが本当に必要な教えを語られたのか、そのようなことを言い争っていたのです。
今日は、家族礼拝なので、家族の中で言えば・・・子どもを生んだのは「お母さん」ですから、偉いのは「お母さん」か・・・それとも、現在は多くのお母さんが働かれているので、このような言葉は差別的な言葉となりますが、「一家の大黒柱のお父さんだ」・・・と「お母さんだ」「お父さんだ」、いやいや「おじいちゃんだ、おばあちゃんだ、いやもっと別の存在だ」と、子どもたちが言い争っているような、状況でしょう。
このように争うコリントの人々に、今日の言葉は、農作物を比喩的に使い、この争いがどれほど意味のないことなのかを教えているのです。
「パウロは植え」「アポロは水を注いだ」。農作物において、植える人がいなければ、水を注ぐ作物自体がなく、また水がなくては、作物は枯れてしまうのです。
わたしは、この教会・幼稚園に来て、6年目となりますが、幼稚園では毎年、キュウリとトマトを育てています。また、私自身も、今年はお花を植えていますが、昨年までは、庭で、きゅうりとトマトを育てていました。作物を育てるには、まず土を耕すことから始まります。土を耕し、そこに肥料をまき、種を植え、そして水を注いでいくのです。そして目が出て、花が咲き、ところどころ剪定をしながら作物を育てていくのです。そして実がなっていくのです。作物には、多くの手入れが必要なのです。ただ、いっぱい手入れをすればするほど、その作物に実がなれば、それは自分のおかげ、自分の努力、自分の働きの成果だと感じるのです。
しかし、この作物を本当に育てているのは・・・やはりよくよく考えますと神様なのです。どれほど準備をして、良い種や苗を植えて、水を注ぎ、心を込めて育てても、やはり「太陽による光を与え、雨を降らしてくださり、そして何よりも、そこに命を与えられた方であり、成長させるのは神様なのです」。
聖書はこの例を通して、私たち人間が生きて、育っていくは、神様の命の恵みによるものだと教えているのです。もちろん、子どもたちが大きく成長していくのには、お父さん、お母さんの精いっぱいの努力があるのです。ただそれでも、そこには、どうしても、思い通りにはいかないことがあります。時に、思いもよらない良い出来事があり、信じられないような出来事が起こります。そして、ときには、考えたくない悲しい出来事も起こることもあるのです。ここに命の神秘があるのです。生命の神秘は私たち人間にはどうすることもできない領域です。この作物の育てることから、パウロは、「成長すること」には神様の働き、神秘があることを教えているのです。
3: 成長させる神様
この聖書の御言葉、「成長させるのは神です」という御言葉は「神様は、この世界を創り、人間を創り、命を与え、日々の生活の養い、愛し、成長させてくださる」と教えているのです。
「成長させるのは神である」。神様は、今も、私たちに命を与え、そしてその命を養い、成長させてくださっているのです。私たちはこのことを忘れてしまってはいないでしょうか。神様という存在を信じることは、命に解放を与えます。もう少し簡単に言いますと、肩の力を抜かして、生きることができるようになるということです。そして、神様の存在を忘れてしまっているとき、私たちは、その人生の責任、社会の責任、また、保護者として子どもの成長の責任、その責任はすべて、自分にあると考えるしかなくなるのです。
私自身、神様の存在を忘れて、自分の力で生きていこうと頑張っていくことがあります。そして、そこで自分の限界によって打ちのめされる時に、自分の無力さを感じるのです。子育てにおいても、隣の人との関係においても、自分の弱さに、打ちのめされそうな時があります。
もちろん、私たちには、この世界をよりよい世界とする責任があり、その社会においても責任があるでしょう。自分の命、他者の命、子どもたちの生活に責任があるのです。しかし最終的に、その命を与え、守り、養い、そして最終的に引き上げてくださる。その方がおられる、つまり神様が最終的な責任を担ってくださるのです。これが、今日、私たちに教えられている御言葉です。
4: 神様に信頼する
神様は、私たちに命を与え、育て、そしてなによりも、愛してくださっているのです。私たちの命は、自分のものではなく、神様に預けられた、「命」だからこそ・・・神様によって愛されて、創られ、成長させられている、だからこそ・・・私たちは預けられた自分の命、子どもの命、この世界、自然など、すべての創られしものを、できる限りの知恵と力を持って、大切にする必要があるのです。そして、そのうえで、私たちは、最後に、すべてを委ねることが許されているのです。私たちは生きるも死ぬも、最後には、神様にお預けすることが許されているのです。最後に、「成長させてくださるのは神様」だと委ねることが許されているのです。
私たちには、生命の神秘という限界を超えて、命を育てることはできない。そしてそこまでの責任は持つことができない、それほどの命の領域までも責任を持つほど、私たち人間は権限をもっていないのです。私たちは、神様によって命を与えられ、生かされて、成長させられている。私たちが最後にできることは、この御言葉に信頼すること、そして従うことです。命は神様によって創られ、今も守られているのです。
私たちは、自分の命にしても、子どもたちにしても、その他、今共に生きているすべての存在において、神様が生かしてくださり、養ってくださり、愛してくださっているということに、目を向けたいと思います。そして、神様に信頼し、どこかで力を抜いて、そしてもう一度、お互いに向かい合っていきたいと思います。(笠井元)