1: 富を積むこと
今日の箇所では、6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」と教えます。この言葉を、そのほかの言葉を抜きにして、ただ「この世において、富を積んではならない」という言葉だけを聞いてしまうと、「この世に富を積んではならない」、つまり「この世の財産を持ってはいけない、お金などは貯金してはいけない」と、聞き取ることもできるでしょう。しかし、聖書は、そのようにただ「財産を持ってはいけない」とこの世の財産を否定しているのではないのです。
現在の日本の平均貯金額は、約1,300万円程度と言われています。皆さんはどのように思われるか、わかりませんが、私がこの数字を聞きますと「わりと多いものなんだな~」と思いました。ただ、この平均値を、都道府県別で見てみますと、一番高い県は2,500万円程度で、それに対して、一番低い県は300万円程度となっていました。この平均値を見ますと、そこには、大きな貧富の差があることを感じました。
また、もう一つの考え方で、下から順に並べて、その中央の金額を出した値を、中央値というのですが・・・日本における貯金額の中央値は約500万円程度になると言われています。この中央値が表しているは、貯蓄がとても多い人がちょっとだけいて、貯蓄が少ない人がたくさんいるということを表しているのです。つまり、この中央値も、日本の格差社会を表している数字なのです。
この数字を見てもわかりますが・・・現在の社会は、いわゆるこの世における少数の「勝ち組」「支配する人」がいて、多くの「負け組」「支配される者」がいる。そして、だれもが、どのように「勝ち組」になるかを考えている、そのような社会となっている、そして、その格差がどんどんと広がっているのです。
皆さんもよくご存じだと思いますが、イソップ物語の中に、「ありとキリギリス」というお話があります。 ありは夏の間、冬に備えて頑張って働き食料をたくわえていた。しかし、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌っていた。やがて、冬がくると、キリギリスは食べ物がなくなり、最後はありに食べ物を分けてもらおうとするけれど、ありは食糧を分け与えることはせずに、キリギリスは死んでしまうというお話です。
この話では、食料をあげない「あり」が冷たく、残酷で、「自分の身を削ってでも人を助けることをするべきだ」と考えられたこともあるのです。ただ、私は、ここではそのような「あり」の「冷たさ」や「慈悲心」を教えようとしているのではなく。むしろ「計画的に生きること」、「働くことの大切さ」をわかりやすく教えているのだと思うのです。
聖書は「富を積むこと」がいけないと言っているのではないのです。「富を積むこと」。つまり財産を計画的に備え、計画的に使うことは、大切なことでしょう。財産もまた、神様から預けられた大切なものの一つです。そして、だからこそ、私たちは、神様から預けられていることを覚えて、喜んで献金をするのでもあります。そして、献金すると同時に、この、神様から預けられた財産の管理をして、神様によって養われて、生き続けるために計画をすること、備えることも、とても大切なことなのです。
2: 自分の価値としての富
では、何がいけないのでしょうか。聖書はこのように教えているのです。6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」つまり、「富みを積んではならない」のではなく、「地上に富を積んではならない」ということです。聖書は「地上に」富を積んではならないと教えているのです。そこでは「虫が食い、さび付き、盗人によって盗み出される」というのです。
もともと、人間の顕著な特徴の一つとして、人間はなにかしら物を収集しようとする傾向があるといわれています。「そんなことはない」と言われる方もおられるかもしれませんが、生活に必要な物だけを持ち、それ以外の何も持っていないという人は、なかなかいないのではないかと思います。多くの人間は、「何かしらをためこむ」習性があるのです。しかし、それは「計画的に生きる」ためではありません。そうではなく、自分と他者と比較して、自分の方が偉く、優れているということを表すためなのです。何かを集めることがすべて、なにもかもがいけないとは思いませんし、私自身、小さいころは何も考えず、姉と競い合い、切手やコインを集めたこともありました。それこそ競い合い集めていました。それはそれで楽しかったので、実際に、そのすべてが否定されると、生きていくこと自体が、ちょっと息苦しくなりますが・・・。ただ、何かを集め、競い合い、良い物をたくさんもつことで、自分が素晴らしいと感じてしまっていくことは、ある意味とても危険な価値観に陥っていると言うことができるでしょう。
この世の価値観は変化していきます。何かを集めることで、自分が素晴らしい者だと思っているときに、集めたものの価値がなくなれば、自分の人生の意味、人生の価値が崩れてしまうことになるのです。自分が何かをもつことで、自分が偉いと思っている、そのようなときに、その価値が全くなくなってしまえば、自分自身の価値を失ってしまうことになるのです。それはまさに、「虫が食い、さび付き、盗人によって盗み出された」状態です。これこそ「地上」に富を積み上げた状態なのです。
「財産を計画的に備え、使うこと」は大切なことです。しかし富をもつことで、自分が偉いと思うこと、その富が自分自身の価値となっていくこと、それは「地上」に富を積むことなのです。聖書は「地上」に富を積んではならないと教えます。それは、ただ、富みや財産こそが自分自身の価値だとして、ため込むことがとても危険であり、もっと根本的なこととして、財産が神様からいただいているものではなく、自分のものであると考えていることだと、そしてそれは間違っていると教えているのです。
3: 何に仕えるのか
今日、読みました聖書の最後には、このように教えています。24節です。6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「神か」、「富み」か。これは、どちらが大切かを選びなさいということではないのです。「富」も大切な神様からの恵みなのです。どちらかを大切にするかではなく、どちらに「仕えるか」を選ぶ必要があるということなのです。ここでいう「富」とは、「マモン」という人格をもった主人となり、人間を奴隷化するものでもあります。この言葉は、なかなか翻訳することが難しく「富」、そして「物質の神様」「物質神」と訳すこともあるのです。
これは知り合いから聞いた話ですが、友人に、親が亡くなられたことによって、遺産を相続することになったそうです。そして、突然、とても多くの財産を持つことになったそうでした。予想もしていなかった多くの財産を得た、その人は、そこから、人生が狂っていったそうです。これまでは頑張って働いていたのに、この多くの財産を持ったことによって、働くこともやめてしまい、毎日、飲んで遊んでという毎日を過ごしていったそうでした。聖書における「放蕩息子」というお話の息子みたいですが・・・結局、最終的にお金は尽き、働き口もなくなり、ホームレスとなっていったそうです。この人の姿こそ、まさに財産に囚われてしまった姿です。「物質の神様」に支配され、そのようなものに仕える者となってしまった姿です。
わたしたちは、「私は自由だ」「自分は何にも囚われることはない」と言っていても、人間は必ず何かを主人として生きているのです。それは時に、「富」や「財産」、そのほかの「あらゆる物」であときがあり、時に「親や友人」といった人間関係であることもあり、そしてなによりも一番多いのは、「自分」だと思います。「自分は、誰も主人としていない、自分の価値観、自分の生き方、自分の考えで生きている」という人もいるかもしれません。その時、その人は「何にも囚われていないのではなく」・・・「自分を主人としている」のです。
どのように生きるのか、どのような判断をするのか、どこに価値観を持つのか、その一つひとつに、わたしたちは、なにかしらの「主人」を置き、それに従い、仕えて判断をしているのです。私たちが何かを判断するときには・・・だいたいが「あの人がこう言っていたから」とか「本に書いてあった」「ニュースでこのように言っていたから」「インターネットでこのように書いてあったから」という何かしらの情報をもとに、自分の理性に基づいて判断するのだと思います。そのとき、私たちはその「情報」「理性」を主人としているのです。そして、それ自体はいけないというのではないのです。ただ、その「情報」が正しいのか、そして、その自分の「理性」は本当にいつも正しい判断をすることができるのか、・・・そこに、疑問を持ち続け、問い続ける必要があるのです。
皆さんは、自分自身をそこまで信頼できるのでしょうか。自分の判断を、そこまで信頼できるのでしょうか。私などはいつも、判断ミス、情報不足で、間違ってばかりの人生なので、どれほど自分が信頼できない者なのかは、身に染みて感じています。
私たちは、確かに、何かを主人としている。何かに仕えています。そして、聖書が教えているのは、「何に仕えるのか」という答えとして、神様を選ぶこと、神様を主人とし、神様に仕えて生きることを教えているのです。そして、それはいつも「神様」に仕えることができているか、「問い続けなさい」と教えているのです。
4: 神様に仕えること
神様に仕えること。それは礼拝し、聖書を読み、祈ること、その神様との関係を考えることから始まります。そしてその中心に、「神様を愛し」「隣人を愛する」という言葉があるのです。22節~23節ではこのように教えます。6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」ここで言う「澄んだ目」とは「単一(たんいつ)」「単純」という意味があります。澄んだ目で見るということは、一つのものを見ること、一つの価値観で生きることを教えます。そしてそれは「神様」を見て、神様に仕えて生きるということ、この一つを選び取ること、つまり、「神様を愛し」、「隣人を愛する」道を選び取るように教えているのです。そして、実際には、この神様に仕えることが一番難しいことだと思います。
私自身を見てみますと、日常生活において、私は、自分中心かどうかを考える余裕もなく、生きることで精いっぱいの時ばかりです。皆さんは、日々の生活の中に置いて、神様に仕えるということをいつも考えて生きているでしょうか。
私たちがまず第一に選び取る道は、「神様を愛そう」と頑張ることではなく、そのような、考える余裕もなく、生きることで精いっぱいの自分を愛してくださっている、その神様の愛、慈しみをただ感謝して受け取ることです。「自分の判断」「自分の意見」「自分の生きている人生」。それが、すべて正しいと思うのではなく、「自分は間違える時がある」と知ることです。「自分は完全ではない」「間違えることもある」。「自分はどのように生きていけばよいのだろうか」。「どこに判断基準を置けばよいのだろうか」。そのように悩むこと、考えること、問い続けることから、神様に仕えることは始まるのです。神様に立ち返ろうとすること、反省すること、神様は愛してくださっていると信じて、もう一度新しく生きていこうとする、その思いが、私たちの人生を大きく変えていくのです。
「神様を信じて」「新しく生きていきます」と言ったからといって、その生活が180度これまでとは別人のように、正しく、聖く、すばらしい人間に変わるのでしょうか。もちろん、そのような人もいるかもしれませんが、実際に日々の生活はそれほど変わらないのが現実でしょう。現実の日々の生活は、それほど変わらない。しかし、神様の愛を見て生きる時、その生きている意味、見ている未来、生きている喜びは、これまでとはまったく違うものとなるのだと思います。これまでと同じように、間違えてしまうこともあれば、人を傷つけてしまうこともある。それでも、自分が完全ではないことを知っている。自分が正しくなければいけないということでもない。だからもう一度振り返って、神様の愛を土台に生きていくことが赦されている。その目は確かに神様を見ているのです。そしてその目が神様に向かっている時、神様はその全身を光、輝かしてくださるのです。
私たちの生活はまさに「マモン」この世の誘惑が溢れているのです。そしてだからこそ、私たちは、礼拝し、御言葉を受け取り、共に祈る、「神様との関係を考える時」「神様との関係を問う時」が必要なのです。私たちは、今、もう一度、自分がどこに向かい、何を求めているのか、共に考えていきたいと思います。そして、私たちは、神様に仕える者として、人生を選び取り、その喜びをいただいて生きていきたいと思います。(笠井元)