1 十戒の意味 自由
十戒は序文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(20:2)という言葉から始まります。つまり十戒はまず、神様の救いがあり、その救いに応答して生きるための十の導きの言葉なのです。
神様はイスラエルの民を、奴隷という立場から救いだし、解放してくださった。それは救いの終わりではなく、救いの始まりの出来事でした。救いが始まり、そして救われた者がどのように生きていけばよいのか。神様はその道を「十戒」で示されたのです。
辞書では自由は「勝手気まま」「自分の意のままに」「強制、拘束などうけない」「主体的に自分自身の本性に従う」ことと記されていました。聖書の教える意味での「自由」というのは、自分がしたいことがなんでもかんでも好き勝手にできることを意味していません。聖書が教える「自由」は神様に対して「従順」であることす。
「6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)、「召された自由人はキリストの奴隷なのである。」(Ⅰコリント7:22-23)
神様は十戒という律法によって人間を束縛したのではなく、十戒に従うことによって本当の自由、神様に従う恵みを与えられたのです。
2 「畏れ」と「恐れ」(18-20)
この18節の情景は十戒の前の19章に続くものということができます。神様が現れる情景を、雷鳴と稲妻、角笛の音、そして山が煙、厚い雲に包まれたという形で記されているのです。イスラエルの民は、この情景に恐怖したのでしょう。そして神様という存在に「畏れた」のです。
私たちは神様を恐怖として「恐れている」でしょうか。それとも畏敬の念として「畏れている」でしょうか。「おそれ」の違いは、神様との関係、つまり私たちの信仰を表しているのでもあります。
神様を「畏れ敬う」時、それは、自分の分をわきまえて、創造主である神様、そして救い主である神様の存在を知ることです。人間は「畏れ」「従順」に仕える者とされるのです。
3 畏れて従う関係
ここでは「畏れ」は「罪を犯させないようにするため」だと言います。「罪がなくなる」とは言っていないのです。つまり、決してこの十戒を破ることがないということではなく、「主を畏れる者」となることを教えているのです。
神様はイスラエルの民を救い出しました。それは「恐怖の恐れ」から「敬う、畏れ」への導きです。十戒は、戒めを守ることを命令しているのではなく、救いに与り、喜んで生きることが出来るための「ものさし」です。今日の箇所は、その神様との関係が表されているのです。(笠井元)