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2018.7.15 「裁きではなく赦しを」(全文) マタイによる福音書7:1-6

1:  『アメイジング・ジャーニー』から

 本日、礼拝後に青年会を持ちたいと思っていますが、ぜひ、「自分は青年だ」と思われる方は、ご出席ください。第一回の青年会では映画鑑賞を行いました。『アメイジング・ジャーニー』という映画を見ました。その内容は、「神様」「イエス様」「聖霊」が実際に登場することもあり、神学的には賛否両論の意見があるお話しでたが、私はその中でも、いくつかのことを学ぶことができました。その内容はすべてをここでお話しすることはできませんが、少しお話ししたいと思います。

 まず、主人公は、小さい時に親から虐待を受け、最終的にその父親を毒殺してしまったのです。その出来事からの「父親への憎しみ」そして「罪の意識」「自分を赦せない」という思いが心に生まれたのです。そのうえで、大人になった主人公が、今度は、自分が少し目を離したすきに、自分の子どもが誰かに連れ去られ、殺害されてしまったのです。そこからは、「なぜ目を離してしまったのだろう」という「後悔と悲しみ」の思いと、殺害した者を「赦すことは出来ない」、「復讐、怒り」の思いが心に生じたのです。そのような出来事と思いから、なによりも大きなテーマとして「赦すことができない」、という苦しみを感じました。

 映画では、最終的に、様々な問いかけから、「赦す心」を与えられていくのですが・・・そこには、「裁くことができるのは神様しかいない」こと、「人間は誰もが同じように罪人であること」、そしてその「罪人である人間を、裁き主である神様が愛してくださっていること」が教えられていくのです。

 

2:  ものさしの違い 

 さて、今日の聖書に目を向けていきたいと思いますが。聖書ではこのように言います。

 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1-2)

 この「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1)という言葉は、人間社会の教訓的な言葉としても、普通に受け取ることができる言葉だと思います。ある意味、特に、信仰を持っていなくても、生きるための知恵としても聞くことができるでしょう。ことわざでも「人のふり見て、わがふり直せ」という言葉があるように「他者を見て批判する前に、自分のことをまず見てみなさい。」という教えは、この世の教訓として教えられているのです。

 実際、私たちは、ほとんどの人が、自分に甘く、他人に厳しくなってしまうというところがあるのではないでしょうか。だれでも自分のことはさておき、他者の行いの失敗を探しだし、批判してしまうところがある者なのではないでしょうか。この行動においては、ただ誰かに厳しいこと、甘いことが一番の問題なのではないと思うのです。問題は、自分を見るものさしと、他人を見るものさしが違うということです。自分にも他人にも同じものさしで見ることが出来ていれば、それが甘くても、厳しくても、それほど大きな問題ではないと思うのです。一番の問題は、他人を見る目、そのものさし、そのはかり、その裁きの基準と、自分を見るものさし、裁く基準が違うということです。そして、このものさしの違いが、この世に差別を生み出し、人を傷つけ、他人を陥れる、そのすべての罪の根源となっているとも言うことができるのです。

 皆さんは、今、自分の存在をどのように思っているでしょうか。また、同時に、隣にいる人の存在をどのように思っているでしょうか。

 

 最近の私の身近なところでは、自分の子どもとの関係や、幼稚園もあるので、幼稚園における保護者と子どもの関係から、大人と子どもの関係において、相手を見るものさしの違いがあることを強く感じるのです。大人の立場から見てみれば、大人は子どもには「ケンカはしてはいけません」「おもちゃは取り合うのではなく、順番につかいなさい」そして「友達、兄弟とは仲良く、ケンカをしないで、必要なものは分け合い、お互いに助け合いなさい」と、よりよい社会生活ができるようになるためにと、いろいろと教えようとするのです。しかし、実際に大人になった自分たちを見てみれば、この世の中は、ものの取り合い、ケンカばかりの社会なのではないかと思わされるのです。幼稚園や小学校では「一緒に頑張ること」「助け合うこと」「隣の人を大切にすること」を学んできたはずなのに・・・そのように教えている者、私も含め、子どもから大人へと成長したはずの、大人が、大人になればなるほど、頑固で人の言葉に耳をかすことができなくなり、平気でうそをつき、人を傷つける者となってしまっている。しかも、知恵がついただけ、その手口はずるがしこく、言い訳は上手になってしまっている。いろいろなことを学び、知恵を得て、「共に生きる」のではなく、「お互いを陥れる者」となってしまっている。そのような現実を見るのです。特に、現在社会では、政治家という「権力を持つ者」、学校の教師など「人にものを教える者」が、嘘をつき、だれかと一緒に喜ぶことではなく、自分の事ばかりを考えている。まさに、子どもでいえば、「すべてのおもちゃを自分のものとしようとしている」。そのような姿を見るのです。

 子どもには「他者を大切に」「仲良く生きること」を教えながら、自分はまったく違う価値観「人をけり落としてでも、自分のだけはよりよく生きる」という価値観に生きているのです。

 

3:  正しいものさし 「愛」

 人を正しく裁くことができる方。すべての者に対して同じものさしをもって、裁くことができる方。それは、大人や教師、政治家や偉い人でもなければ、小さな子どもでもありません。先ほど、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1)という言葉は、人間社会の教訓的な言葉としても受け取ることができる、と言いましたが、だから気を付けて、他者と自分を見る目を、同じように見るようにしようと努力することは大切なことです。しかし、だからといって、人を見る「ものさし」と自分を見る「ものさし」を同じようにすることは人間にはできないのです。それが人間の限界なのです。

 人を正しく裁くことができる方。それはただ完全な愛の方、イエス・キリスト一人です。イエス・キリストは「愛」を持って、すべての人間を裁かれるのです。イエス・キリストにとって、すべての人間は、自分にとって大切な、大切な、存在なのです。そしてそのような大切な存在として向き合ってくださるのです。イエス・キリストはすべての人間に対して同じものさしをもっておられるのです。そして、そのものさしは、人間の存在を愛している、「愛」というものさしです。

 

 今日の箇所の言葉は、もともとは、マタイ5:43~48の後に置かれていた言葉であると言われています。マタイ5:43からの言葉というのは一言で言うとイエス様が「敵を愛しなさい」と言われた箇所です。

 5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:43~45)

 イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。そしてイエス・キリスト自らが先頭に立って「敵を愛された」のです。これがイエス様の持っている「ものさし」「裁きの基準」です。キリストは、私たちすべての人間を差別することなく、愛された。それは正しい者も、正しくない者も、悪人も、善人も関係ないのです。すべての者を愛されている。それがイエス・キリストという「裁き主」の持たれているものさしです。そして、だからこそ、イエス・キリストは、わたしたちにも「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」と言われているのです。イエス様は「お互いに裁き合う」のではなく「お互いに赦し合いなさい」と教えられているのです。

 

4:  神の裁きを受け入れない者

 今、私たちは、どのように生きる道を選んでいくのでしょうか。お互いに赦し合い生きていくのでしょうか。それともお互いを裁き合い生きていくのでしょうか。6節ではこのように語ります。「7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 この言葉は、マタイによってここに挿入された言葉とされています。つまり、マタイなりに、必要があり、意味があるから、この言葉をここにもってきたのです。神様はその身をもって、私たちを赦し、愛されました。これが神様の福音です。しかし、当時のマタイの教会では「偽預言者」といわれる人々、この「キリストの愛」を知りながらも、福音を受け入れないだけではなく、この福音を使い、人々を惑わす人々がいたのです。まさに「神聖で真珠のように輝く福音を、踏みにじった」のです。主イエス・キリストは「愛」をもって、私たち人間を裁き、赦してくださいました。

 わたしたちが「神様の救い」に与るということは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け取ることです。自分の弱さ、他者の弱さを受け入れ、それでも愛してくださっている神様の愛を喜ぶことです。そして「イエス様の愛」をいただいた者として、お互いに赦し合い、励まし合い生きていこうとする。その心の決心に、「神の救い」「神様の愛」が始まるのです。しかしまた、私たちは、救いを受け取らないことも選ぶことができるのです。「すべての者を愛されている」その、神様の愛に従わない道を選ぶこともできる。そして、それが罪に生きることです。私たち人間が罪に生きることは、このイエス・キリストの愛の裁きを受け入れないことなのです。怒りに燃え、他者を裁いていくこと、また、自分の弱さやむなしさから自分の存在を否定してしまうこと。自分の勝手なものさしで、自分を裁き、他者を裁いていくこと。神様の愛を受け入れないこと。この生き方が、人間の、ある意味、本当にただの人間としての生き方なのです。

 

5:  裁くのではなく赦しを

 私たちは神様の愛を受け入れ、お互いに赦された者として生きていくのでしょうか。それとも、神様の愛を投げ捨て、自分の裁きによって人を裁いていくのでしょうか。神様は、私たちが「赦す」ように、赦しあう者となるように、愛して導き、教え、求められているのです。そして、「裁き」が「赦し」となるために、イエス・キリストを通して、その「愛」を示されたのです。「裁くこと」。それは、お互いの関係を断ち切ることです。お互いの弱さ、お互いの違いを受け入れるのではなく、その違いによって、お互いの関係を断ち切ってしまうことなのです。そして「赦すこと」は、その断ち切れた関係をもう一度つなぐことです。神様からすれば、私たち人間は、神様から何度も何度も離れていく者でしょう。自分のしたいことをし、自分を中心に生きて、他者のため、他者を愛するように生きていくこがなかなかできない、弱く、自己中心な者なのです。人間は、神様の愛から何度も離れてしまいます。言い方を変えると、人間が神様を「必要ない」と裁いているのです。そのような人間のために、神様は、このイエス・キリストをもって、何度でもその関係をつないでくださるのです。イエス・キリストによる愛。それは「神様との関係をもう一度つなぐこと」です。そしてそれはまた「人間と人間の関係を何度もつなぐこと」のためにでもあるのです。

 わたしたちは今、主イエス・キリストの「互いに愛する」という、神様の愛の裁きを受け取っていきたいと思うのです。 それは、心の中に「怒り」や「憎しみ」が生まれたときこそ、是非、わたしたちは、その自らの意志をもって、「あなたの愛をいただきます」という道を選び、愛し合い、赦し合うという道を進んでいきたいと思います。わたしたちはイエス・キリストによって愛され、赦されているのです。この赦しを心にいただき、お互いに愛し、赦し合う者とされていきましょう。(笠井元)