1: 心から求める
今日の箇所は、とても有名な箇所で、皆さんもこの箇所から、様々なことを教えられてきたと思います。今日は、まず最初に素直に「求めること」を学びたいと思います。神様は「求めなさい、そうすれば与えられる」(7)と語られます。私たちは神様に「心から求めている」でしょうか。神様に祈る時、どこかで「まあ、これは無理だろうけれど・・・とりあえず・・・」くらいの気持ちで祈っていることがあるのではないでしょうか。そして、逆に、祈らなくてもできそうなこと、私たち人間の常識範囲内のことだけを求めて、祈ってしまっていないでしょうか。
私自身も、時には、「さすがにこれは無理かな」と思ってしまうこともあれば、「これくらいなら、なんとかしてくれるのでは」と、人間の常識範囲内で神様の働きを祈り求めてしまうときがあります。
先週の教会学校では、神様が「ソドムの町を滅ぼそう」と言う中で、アブラハムがソドムの町を滅ぼさないために、神様に交渉をする場面から、「神様の御心を変えようとするほどの強い思い」をもった祈りについて、学びました。アブラハムは、最初に、「ソドムに正しい人が50人いたら滅ぼさないでください」と言いました。このアブラハムの執り成しに、神様は「50人正しい人がいれば、町全体を赦そう」と言うのです。そしてアブラハムは、そのあと、「45人」「40人」と、そして最後には「正しい人が10人いたら滅ぼさないでください」と、神様と交渉をするのです。そして神様は「10人正しい人がいれば、ソドムの町を赦そう」としていく。つまり神様は、その思いを変えられていくのです。
私たちはこれほどに強く祈り求めたことがあるでしょうか。今日の箇所では、神様は、7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と、確かに「求める」ことを教えられているのです。私たちはまず、素直にこの言葉を心に受け取りたいと思います。「求めましょう」。それが神様の御心かどうかはわかりません。それでも私たちは、命を創り、今も、そしてこれからも、命を守り導いてくださる方に、心の底から「求めていきたい」と思うのです。今日の箇所は、この神様に信頼して「求めること」「探すこと」「門をたたくこと」から始まるのです。
2: 聞かれない祈り
そのうえで、求めて、求めて、それでも祈りが聞かれない時が、私たちの人生には、確かにあるのです。どれほど神様を信じて、神様に求めて、祈っても、その祈りは、すべてがすべて聞かれるわけではないのです。私たちのわがままな祈りがすべて聞かれるならば、それはそれで恐ろしいことです。極端な話ですが。「これが欲しいです」「あれが欲しいです」と言ったことがすべて適うなら、それこそ「お金が欲しいです」と言えば、空からお金が降ってくるようになるようなものです。そこでは、人間の思い通りの世界になったわけですから、人間が神様になったようになってしまうのです。
ただ・・・自己満足だけのためではなく、他者のための祈りもすべてが聞かれるわけではないのです。「あの人が苦しんでいます」「助けて下さい」。どうか「命を救ってください」と、どれほど祈っても、自分の命を投げ捨てでも、神様にだれかを助けてほしい、癒してほしいと思って祈っても、その祈りもまた聞かれないことがあるのです。期待して、求めて、祈り続けることは大変なことです。特に、自分の満足のためではない祈りが、祈っても、祈っても聞かれないことが続く時に、心は疲れていきます。そして、疲れてくると「祈ること」「求めること」自体がつらくなり、期待しなくなってしまうときがあるのです。そのようなことが続くと、期待して、心の底から信じて祈ることを忘れてしまうことがあるのです。
そのような時に、わたしたちが覚えておきたいのは、実は、祈りが聞かれないことは、イエス様ご自身でも、そうだったということです。イエス様は十字架に架けられる前に神様に祈りました。その祈りのなかでイエス様は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)このように祈ったのです。イエス様もまた、「この杯」つまり、「十字架」・「死」という苦難を過ぎ去らせてくださいと祈っているのです。イエス様は神様に救いを求めたのです。
しかし、そのイエス様の願いの祈りに対する神様の答えは、十字架という形で与えられたのです。祈りが聞かれないこと。それは神様が薄情だから、祈り、求めを聞いてくれていないのではないのです。神様は何よりも私たちのことを知ってくださっています。そして何よりも私たちのことを愛してくださっているのです。イエス様の十字架の前の、苦しみの祈りを聞いていた、神様ご自身の心もまた、苦しみ、痛みと悲しみでいっぱいだったと思うのです。それでも神様はその道を選んでいったのです。それは、その道に、本当の命の恵み、希望があるからです。神様にはそれが見えているのです。神様は「パン」を求める子ども、イエス様に「石」を、「魚」を求める子どもに「蛇」を与えません。今日の箇所ではこのように教えます。「7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9-11)
天の父、神様は求める者に、必ず良い物を与えてくださるのです。
3: 何を求めるのか
今日の箇所は、山上の説教のしめくくりとして記された箇所でもあります。これまでマタイの5章からは、「山上の説教」としてイエス様がその教えを語られてきました。山上の説教においては様々なことが語られたのですが、その一部を読みますと・・・5章43節~44節では「5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43-44)、また6章9節~10節では、「祈りはこのように祈りなさい『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』(6:9-10)、そして6章31節~33節では「6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)
この今日の箇所までに、イエス様はこのように教えられてきたのです。イエス様は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「御国が来ますように。御心が行われますように」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と教えているのです。そして今日の箇所において「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と教えられているのです。私たちは一体、何を求めているでしょうか。神様は「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」そして「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言うのです。「神の国と神の義」つまり、「神様の御心」、「神様の御業」を求めなさい、そしてそれは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことだと教えられているのです。
4: 命に通じる狭い道
そして、イエス様は13節からこのように言われました。7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)「狭い門」、私たちの間で「狭き門」と言えば、競争率の高い、入ることが難しい、学校や会社、そのような道のことを考えます。多くの人が振り落され、少しの人数だけが選び出される。そのような道のことを考えるのだと思います。しかし、「命に通じる門」「命に通じる道」は、そのようなものではないのです。ここでの「狭い」という言葉は、「窮屈な」「圧迫された」という意味を持ちます。この福音書が記された当時の教会は、社会的に圧迫され、迫害されていたので、迫害されるキリスト者を励ます言葉としても用いられていたでしょう。
私たちにとってこの言葉「命に通じる道」「狭き道」を考える時に、確かにその道は「窮屈」なのかもしれません。「神の国と神の義」を求めること、「神様の御心」を求めて「敵を愛して」生きていくことは、とても窮屈なことだと思うのです。私たち人間にとって、「神様のこと、その御心、御業を求めることは、窮屈なこと」ではないでしょうか。自分の隣人だけを愛するのではなく、敵をも愛すること。自分の思いではなく、神様の思いを中心に生きること。この世の価値観から、神様の価値観に生きること。ここではこの「窮屈な道」「狭くて細い道」を歩き出しなさい、そこに「命の道」があると教えているのです。
5: 聖霊の導きを求める
イエス・キリストの歩まれた道は、神様に従い続けた道です。その道は困難の道、狭く、厳しく、窮屈な道でした。それは「苦しんでいる人と共に苦しみ、泣いている人と泣き、罪人とされる人の隣を生きた」人生です。「他者を愛した道」です。そしてその頂点に十字架という出来事があったのです。私たちが求める、狭き道は、このイエス・キリストに従う道、「敵を愛し、弱き者、苦しんでいる者と共に生きる道」です。私たち人間にとって、「敵を愛する」ことは自分の力だけではとてもではない、難しいことだと思います。もし、自分の思いだけで「愛することができる」ならば、それは本当の心からの敵ではないのでしょう。「敵」という存在は「愛することができない、受け入れられない存在です」。そして神様は、その「敵を愛しなさい」と言われるのです。この道は、私たちが自分の力だけで歩くことができない道です。神様に「求めなければ」できない道なのです。
今日の御言葉では「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与える」(11)と教えています。ここで言われている「良い物」は、ルカによる福音書では、「聖霊」とされているのです。神様は、良い物、聖霊を与えてくださいます。それは、わたしたちには不可能だと思える道を開いてくださる方、「敵を愛する」という、私たちだけでは不可能な愛の道を歩かせてくださる「導き主」「聖霊」が与えられるのです。私たちは、この聖霊によって導かれることを信じたい、神様に信頼したいと思うのです。「求めなさい」という神様の言葉に期待して、祈り、敵を愛するという道が開かれることを信じて求めたいと思うのです。イエス・キリストは「愛する」ことを徹底的に行われました。命をかけてまで私たち人間を愛してくださったのです。私たちは神様に愛されているのです。私たちがすべきことは、このイエス・キリストの十字架に従い、「愛する」道を歩き出すことです。
私たちの人生は、選びの連続です。それは人生の岐路となる大きな選びから、日常的な小さな選びとあります。わたしたちはどの道を選ぶことで、神様の御心を生きることになるのでしょうか。それは、実は、わかりません。「わからない」というより、その道は「決まっていない」のです。その時、その場面、その関係によって違い、どうすることが正解ということはないのです。ただ、「神の御心を求め」「イエス・キリストによる救いの愛を求め続け」「十字架の道を歩かれた方に従い、求める」。この選びの連続に生きること、そこに「狭き門」をくぐり抜け、「命の道」を見出すのです。
神様は、私たちを愛してくださいました。私たちはこの神様による愛の導きの道を信じて求め続けていきましょう。(笠井元)