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2018.8.12 「人知を超える神の平和」(全文) フィリピの信徒への手紙4:2-7

 8月は「平和」を覚える月です。先週も6日そして9日に73回目の原爆被爆記念日を迎えました。敵・味方の区別を超えて、戦争というものが人間に与える悲惨さ、そして、一人一人の苦しみの背後にはさらに多くの苦しみの物語があることを知らされます。笠井先生も先週は、「平和をつくりだす人たちは、さいわいである」という説教をして下さいました。私たちは、安倍首相の「積極的平和主義」という名の軍事力、核兵器による抑止力(圧力)が平和をもたらすというもっともらしい理屈が、軍備拡張に向かい、実は、かえって危うい考え方ではないのかという現実に直面しながら日々の生活をしています。

 今日読んでいる聖書個所では、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と言われています。「神の平和」が私たちを守る、私たちを守るのは実は、「神の平和」なのであると言います。私が読み慣れた口語訳では、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の『平安』が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。でした。同じ「エイレネー」(eirēnē)というギリシヤ語が、人間の内面を表すときには「平安」と翻訳され、内面的というより、社会的な場合は「平和」と翻訳されてきたのでしょうか。新共同訳は「平安」と「平和」を切り離さず、あえて「平和」と翻訳しています。たぶん、隣人との関係において、また、社会的に「平和」が実現されていなければ、自分だけ心が「平安」でいられないのでしょう。逆に、自分の「心」に平安がないなら、人は社会的な「平和」を実現する担い手となることは、いつまでもできないでしょう。平安と翻訳しようが、平和と翻訳しようが、「平和」は、全人格的な出来事であり、また、対人関係、対他者との関係の中で経験されればならないでしょう。今朝は、「平和」に焦点を当ててメッセージを聞き取りましょう。

 

1.文脈

 まず、文脈を考えてみましょう。4:2~9にはクリスチャンがこの世界でどのように生きるべきか、様々な勧めの言葉が記録されています。2~3節では、教会において、それぞれ違いがあったとしても、「同じ思い」を抱く大切さが語られています。エボディアとシンティケという二人の女性たちが、意見の違いでたぶん教会から遠ざかっていたのでしょうか?彼女たちが孤立せず、教会の交わりに帰ることを勧められ、また、教会の側も彼女らを迎え入れることを勧めています。まさに、二人の女性指導者たちと教会の間の葛藤と平和の問題です。

 4~7節には、「喜ぶこと」と「広い心」を持つことがこの世に対して、教会が信仰の証をするのに必要であることが語られています。8~9節ではまた別の勧めがなされています。それぞれの勧めの相互の繋がりはそれほど明確ではなく、話の筋道は一貫してはいませんが、今朝は、4~7節を中心にして考えて見たいと思います。

 

2.「喜び」と「寛容」(広い心)について

 「喜び」はフィリピ書の基本的色調であり、フィリピ書が「喜びの書」と言われること、しかもパウロの投獄と教会内の多少の不一致という現実の中で「喜び」が語られていることは既に再三述べてきました。ここでは、「常に」喜べと言われており(4節)、人は常に喜ぶことなど不可能ですから、単に、「喜び」とは、人間的、心理的、情緒的問題ではないことを知ることができます。また、「主において」と言うことですから、主イエス・キリストの恵みと愛において「喜んで生きること」がすでに神様が備えて下さり、可能にされている状態であることを知ることができます。同じように、「あなたがたの広い心が」「すべての人に」知られるように、と言われており、「どんなことでも」「何事につけても」感謝してと言われていていまあう。これらの勧めは、Iテサロニケ5:16~18:「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」を思い起こさせます。そして、すでにIテサロニケの説教で強調したように、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」ということが重要であり、「主イエス・キリストの愛によってそれが可能にされている」ということでした。ここでも、「喜べ」と「広い心であれ」は、「主は近い」という事実と「神の平和があなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るであろう」という確かな約束という2つの事柄によって可能にされているのです。人間的に考え、心理的に、私たちが生きる状況が辛く、苦しく、悲しいものであっても、信仰によって「喜び」が可能にされ、「広い心」で生きることができるし、だから、「そうであれ」と勧められています。

 

3.「寛容」「広い心」とは

 実は、私の次男が生まれたとき、その日に読んでいた聖書個所がフィリピ4章でした。口語訳では4:5は「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」でした。私は基本的に信仰熱心ではあっても広い心は持っていないと自覚していましたので、「寛容であること」に憧れを抱いておりました。そこで、次男を「寛」と命名しました。ただ問題がありました。父親が「ひろし」という名前で漢字は「博士」のハク、「博」でした。そこで父に、次男に同じ音の名前で良いか許可を求めました。父の前で、次男を「こら、ヒロシ」(「ひろしです」という芸人は福岡の人のようですが)というと父親の方が身をすくませるのではないかと恐れたのでした。まあ、良いだろうということで「寛」となったわけです。他者を受け留めること、自分の主張を持ちながらも許容範囲の広さをもつこと、こころの優しさは大切なことです。しかし、今回説教を準備する過程で「寛容」として考えてきたこの言葉(epieikēs エピエイケス)にはいろいろな意味があることを知りました。元はeikos「 納得のいく」という意味にepi という前置詞がついており、epi とは、「上に」を意味するものであって、依拠・関連とか理由を表します。ですから寛容とはただ「何でも来い」というようなズルとした締まりのない「広い心」を意味するのではなく、その広さが、「思慮あること」、「納得がいく理由」を根拠にしていなければならないようです。「思慮があるからこそ」自分の一時的感情や立場などに固執せずに、「思いやりがあること」、「穏健な」判断ができることを意味していることが分かりました。つまらない理由で「人と争わないこと、他者と平和に過ごすこと」も意味するのでしょうか。クリスチャンは自分を中心に生きているのではなく、神がキリスト・イエスを通して成し遂げて下さった救いを受け入れているがゆえに、「思慮深く、納得がいく理由で、他者を受け入れ、広い心、思いやりを持つことができるはずである」というのです。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」。これが、聞くべき戒めです。

 

4.主は「近い」

 「喜びなさい」と「広い心」を示しなさいという戒めは、主は「近い」という信仰的事実に基礎づけられています。「近い」(eggus)は、距離的に「すぐそばに、傍らに」(standing by me)「近く」なのか、時間的に「近く」なのか?終わりの時、救いの完成の時が「近づいている」のか、の2つの意味が可能でしょう。「主は近い」と翻訳している口語訳、(新改訳「主は近いのです」)は終末の接近という意味合いが前面に出ていますし、新共同訳の「主はすぐ近くにおられます」は距離的なニュアンスです。まあ、両方の意味を含んでいると考えておきましょう。親子、夫婦、牧師と信徒、上司と部下、あらゆる人間関係においてとても親しい、近い存在ではあっても、私に、そして、あの人に最も近くいるのは、主イエス様であるということを受け留め、決して思いあがらず、また、絶望せずにいたいものです。そこに個人としての人間の尊厳があるのです。主イエスの再臨が遅い、将来など暗闇であろうということが私たちの実感であるとしても、主イエスは間もなく来られる、これが私たちの希望の根拠なのです。堪え性が破れそうになるとき、将来に希望をもてなくなるとき、主がこられ、救いを完成してくださる日はすぐ明日に迫っていることを信じるのです。

 

5.思い煩うな

 さらに、「思い煩うのはやめなさい」(4:6)という勧めが続きます。しかも「どんなことでも」です。この勧めはマタイ6:34のイエス様の言葉を思い起させます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。大学で学生たちに聖書の言葉を教えていて、とても反応の良い、人気のあるみ言葉です。

 ここでは、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト。イエスによって守るでしょう」と続いています。この言葉は、瑞穂教会の一人の姉妹を思い起こさせます。私は25歳で西南学院神学部専攻科を卒業し、734月に名古屋に赴任しました。ところが、そこに、3月中旬夫をガンで失って悲しみのどん底にある姉妹がおられました。お会いするたびに泣いておられました。数か月後、彼女は、私にフィリピ4:7を開いて「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあるが、これは嘘だ、いくら祈っても自分には「人知を超える神の平安が与えられない」というのです。25歳の若い牧師が、50歳近い女性を慰めることは難しいです。そこで私は「あなたは夫を失って孤独になった自分が可哀そうで、惨めで嘆いているのでしょう。しかし、あなたと一人娘を残して死んでいかねばならなかった夫はどんなに辛かったでしょうかね」と言ってしまいました。まあ、牧会の鉄則では1年くらいは悲しみに寄り添うことが大切なのです。しかし、彼女はシャンとなりました。「人知」を超えた、理性をこえた「神の平和」とありますので、まさにそれを人知で考えると、分からなくなります。これは、決して「棚からぼた餅」のように、自動的に与えられるのではないのです。私たちは、悲しみ、怒り、嘆きを抑圧してはいけません。自分のことを悲しむのではなく、他者のことを考えてみると、その人の悲しみ、怒り、嘆きに連帯し、自分は少し軽くなることもあります。問題を押さえつけるのではなく、それに耐える力をいただくのです。

 自分を含めて、「配慮すること」「気にかけること」は悪いことではありません。問題は、自分の中だけで、自分で解決しようとすることなのです。「自分で自分を、自分であの人を守るのであれば」、「思い煩う」ことになるし、自分の中で空回りする「思い煩い」になります。そして、人から妙に気を使われるとかえって重たくなるのです。自分で自分を護ることがもたらす危険、「思い煩い」の危険があります。ですから、私たちは、「思い煩うな」という戒めを聴き、解放される必要があるのです。ちなみに付け加えておきますが、牧師として初めての正月を迎え、元旦礼拝を終えて、長閑な元日の午後を迎えて、「ああ、平和だな」と思った瞬間、【寂しい想いで正月を過ごしている人がいるかも知れない」と思いました。そこで、元日の午後、車で40分ほどの方を訪問しました。「数時間前に元旦礼拝でお会いしましたが、夫を失い一人で過ごす初めての正月。泣いていたでしょう?」と言いますと、「はい」と言って一緒に泣き、一緒に笑いました。わたしたちは「思い煩うな」と呼びかけられています。

 

6.「神の平和」が護るであろう

 自分で自分を防衛するのではなく、神の平和が護って下さる。「打ち明けることのできるお方がいる」ことが慰めなのです。対話相手の神がいるのです。神に信頼していれば、祈ること、賛美すること、感謝することができるというのです。祈り(meta proseuchē 神への祈り)と願い(deēsis 必要とするものを願い求めること)に際し、感謝を込めて(eucharisitia)、自分で自己解決を図るのではなく、神に主導権を委ねること、あらゆる問題について、あなたがたが抱く求め(aitēmata)が神に知られるようにしなさいと勧められています。自分で自分を防衛するのではなく、神ご自身が警護されるのです。さまざまなことに「注意すること」は必要ですが、「心配」は不必要です。ここで、平和を語りつつ、戦争用語が使われているのは皮肉です。私たちはどうであれ、心乱れていても、自分で自分を配慮するのではなく、神の平和が、キリスト・イエスにあって、わたしたちを「警護するであろう」(phrourō=監視する、警護する、守備隊を置いて護る)というのです。

 この説教を準備しながらモーツァアルトの交響曲39番を4,5回聞きました。そして、この交響曲39番に触れている宮本輝の『錦繡』の1節を読み返してみました。美しい音楽も絵画も小説も、苦難の中で、悲しみと孤独の中で創作されたからこそ心に響くのではないでしょうか。

 そのような苦難、孤独の中で、神の平和が守備隊で取り囲んで、みなさんを警護するであろう。この神に身を委ねましょう。(松見俊)