1: 偽預言者
今日の箇所では、まず「偽預言者を警戒しなさい。」(15)と言います。当時の教会において、実際に「偽預言者」がいたのでしょう。「偽預言者」とは、全く同じ主の弟子とみられる存在でありながら、事実は偽りの弟子、「神様・キリストのことを伝えるのではなく、自分の名誉や権威をもとめた者」がいたのです。「偽預言者」は、教会に集まる者たちを惑わし、そのことによって、教会が、信仰を失ったり、分裂に追い込まれていったということがあったのです。
現在においては「預言者だれだれ」という存在の人があまりいないのです。現在は「神父」や「牧師」などと呼ばれる者はいても、「預言者」と呼ばれている人はあまりいないのではないと思うのです。そのような意味で、教会における「預言者」という立場というのが、どのようなものなのか、私たちには、なかなか感じ取ることができないかもしれません。当時の「預言者」という人、その立場はどのようなものだったのでしょうか。
当時の教会において、預言者とは、使徒と同じような位置づけをされていました。聖書にはこのように記されています。
エフェソ2:19-20「2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。」
Ⅰコリント12:27-28「12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」
エフェソでは「使徒や預言者」とほぼ同等の立場に、またコリントでは「第一に使徒、第二に預言者」とこれもまた、順番的には使徒の次になっていますが、使徒と同じように、イエス様から与えられた信仰を教え、その恵みを伝え、指導する、そのような立場にいたことがわかるのです。そのような立場の人たちのなかに「偽物」がいた。「信仰の指導者」が「神様の愛」を伝えるのではなく、「自分自身が偉く、自分をあがめてもらう」そのようなことを求めていたのです。もしそのようなことがあれば、教会は惑わされ、信仰の道を見失い、教会が分離してしまうことは当然でしょう。そして当時の教会において、そのような「偽預言者」の存在があった。そしてその偽預言者によって、実際に、教会は分離、分裂してしまったということがあったのです。そのような現状の中において、ここでは「偽預言者を警戒しなさい。」(15)と教えるのです。
2: 実を見る
そして、「真の預言者」と「偽預言者」を見分けるために「結ぶ実」を見なさいと教えているのです。ただ、この御言葉を聞く私たちが、他者に向けて、「あなたは良い実を結んでいる」「あなたは間違った、悪い実を結んでいる」とみていくとき、それは、私たちが他者の行動をみて、裁くことになってしまうのです。ある意味、そのような考えで人を裁くこと、そのように教えること自体が「間違った信仰」「偽預言者としての教え」を語り始めているのだと思うのです。では、この言葉をどのように読み取ることができるのでしょうか。その一つの読み方として、だれかを見て「あなたは間違った実を結んでいる」「あなたの信仰は偽物だ」ということではなく、まず自分自身がどうであるか、考えることが必要であり、自分が本当に、神様に従うことができているのかを問いかけていくことが必要であると、読み取ることができるでしょう。では実際に、良い実とはどのような実なのでしょうか。私たちが、自分自身に問いかけるとして、自分はどのような「実」を結ぶことが求められているのでしょうか。
ガラテヤ書では「聖霊による結ぶ実」をこのように教えています。「5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、節制です。」また、ヨハネによる福音書ではこのようにも教えています。「15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
どちらも「良い実」の中心には「愛」があることを教えているのです。今日のこの箇所において「良い実を結ぶこと」それは「愛すること」そしてその「愛すること」を実行していることを指しているのです。
3: 神様が愛してくださっているという「実」
わたしたちは、自分の心のうちを見て、自分は愛することができているかと問いかけてみるときに、どのような答えを見つけることができるでしょうか。 少なくとも、わたし自身でいえば、胸を張って「自分は愛の人で、他人を愛することができます」とはいうことはできません。聖書は「愛し合いなさい」と教えます。そしてそれは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」そして「あなたの敵を愛しなさい」と教えるのです。そしてそのうえで、今回は「良い実」「愛の実」を結びなさいと言われている。皆さんは、「愛しなさい」と言われ、実際に「愛することができている」と胸を張っていうことができるでしょうか。
今日の箇所では、21節からこのように続くのです。
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
ここでは「主よ」と言う者、そして「主よ」と言い、「預言し」、「悪霊を追い出し」、「奇跡を行う者」が「天の国に入るわけではない」「そのような者に対して、イエス様は『あなたたちの事は全然知らない』」と言うと、教えているのです。つまり「主よ」と呼びかけ、「神様のために生きる」こと。それだけでは「本当に良い実」を結んでいるのではないということです。「預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行う」。つまり、「神様の御業を行い生きる」ことだけでは、「本当に神様と繋がっている」とはいうことはできない、そこに本当の信仰者としての生き方があるのではないというのです。
わたしたちが、どうにか「良い実」を結びたいと願い、「互いに愛しあう」ために何かをすること、信仰者として生きていこうと思う時に陥りやすいことは、「良い実」を結ぼうとすることによって「悪い木」につながってしまうということです。つまり、イエス・キリストにつながり、イエス様により頼むのではなく、自分でがんばろうと、自分の力だけによって生きていこうという「誘惑」です。私たち人間は、何かをすること、何かをしていこうとして、「良い実」を結ぶことはできないのです。どれほど奇跡を起こしても、どれほど預言し、悪霊を追い出したとしても、私たちは「良い実」を結ぶことはできないのです。
「良い実」を結ぶために必要なことは、ただ、神様に愛されていること、自分では何もできないけれど・・・そのような私たちを愛してくださっている方、イエス・キリストにより頼むこと、そして自分の弱さを知り、ただへりくだること。つまり「良い木」であるキリストにつながることによってのみ「良い実」を結ぶ者とされるのです。
先ほどにも少し話しましたが、ヨハネの福音書では「愛する」ということが「良い実」を結ぶと教えている。そして、このように言うのです。
「15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。5:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(15:16-17)
「わたしがあなたがたを選んだ。」(16)ここに、私たちの信仰があるのです。私たちは自分で何かをしてイエス・キリストの愛を手に入れるのではないのです。ただただ、神様が愛してくださったという、神様の愛によるのです。私たちが「良い実」を結ぶために、「愛の実」を結ぶために、神様が、私たちを選び出してくださった。それは、私たちが何かができるからでも、何かをしたからでもなく、ただただ、神様が、私たちを無条件に愛してくださった。その無条件の愛によって、私たちは「良い実」を結ぶように選び出されたのです。
4: 痛みを伴うへりくだり
神様が、私たちを愛してくださった。私たちは、何かをしたからではなく何かを持っているからでもなく、ただただ神様に愛されているのです。わたしたちは、この神様の愛につながること、そしてそのために「へりくだる」ことが「良い実」を結ぶことになるのです。自分で「何かをしよう」「何とかして良い実を結ぼう」とするのではなく、ただ神様の愛の前にへりくだり、生きていくことから「良い実」を結ぶことが始まるのです。「へりくだる」こと。本当に、心からへりくだる時、そこには大きな痛みを伴うのです。イエス様はへりくだり続けられました。フィリピではこのように言います
「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
イエス・キリストは「へりくだり」、人生の最後の最後まで「へりくだって」、十字架の死に至るまで、へりくだられた。イエス・キリストは自分を無にしてまでもへりくだり、死にいたるまで、その苦しみや痛みを受けても、へりくだり、神様に従われたのです。私たちがイエス・キリストに従うこと、「愛をいただいた者」として生きることは、このイエス・キリストのへりくだりに従うことです。イエス・キリストは「十字架」、そして「死」という痛みを受け入れられたのです。私たちがへりくだる時にも、もちろん必ず大きな痛みが伴うことでしょう。
へりくだる時イエス様は「神」という立場から降りてこられたのです。私たちもまた、今、自分がいる立場から降りなければならないのです。イエス様は「自分は神である」という立場を捨てられました。つまり私たちもまた、へりくだるためには、自分が今持っている価値観、正しいと信じている生き方、これまで生きてきた人生を、一度、すべて捨てることが必要なのです。私たちが「良い実」を結ぶためには、「自分」という「木」から離れて「キリスト」という「木」につながる必要があるのです。へりくだること、自分の人生、価値観、正しいと思っていたことを、一度捨てること、そこには確かに大きな痛み、苦しみが伴うでしょう。私たちは自分の価値観を捨て、そしてへりくだり、神様によって愛されているという価値観に生き始めていきたいと思います。
ただ、それは簡単なことではありません。とても心に痛みを伴い、苦しいことなのです。しかし、その痛みを共に受け取ってくださる方がいると信じること、イエス・キリストが私たちを愛してくださっているということを信じて受け入れること、それが本当に「イエス様、あなたがわたしの主です」と告白することになるのです。
わたしたちの隣にはイエス・キリストがいてくださるのです。わたしたちは自分ではなく、このイエス・キリストを信じ、このキリストにつながる者として生きていきましょう。このイエス・キリストによる愛の恵みを信じて、もう一度自分の人生を問い直していきたいと思います。(笠井元)