1: 偽預言者
当時の教会では、主の弟子とみられる存在でありながら、事実は偽りの弟子「偽預言者」がいたのです。偽預言者は、教会に集まる者たちを惑わしました。当時の「預言者」という人、その立場はどのようなものだったのでしょうか。エフェソでは「使徒や預言者」とほぼ同等の立場に、コリントでは「第一に使徒、第二に預言者」と、使徒と同じように、イエス様から与えられた信仰を教え、指導する、そのような立場にいたのです。
2: 実を見る
「真の預言者」と「偽預言者」を見分けるために「結ぶ実」を見なさいと教えています。実際に、「良い実」とはどのような実なのでしょうか。
ガラテヤ書5:22-23「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」ヨハネによる福音書15章「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。・・・わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
どちらも「良い実」の中心には「愛」があることを教えているのです。
3: 神様が愛してくださっているという「実」
皆さんは「愛することができている」と胸を張っていうことができるでしょうか。
私たちは、何かをすることで「良い実」を結ぶことはできないのです。どれほど奇跡を起こしても、どれほど預言し、悪霊を追い出したとしても、私たちは「良い実」を結ぶことはできないのです。「良い実」を結ぶために必要なことは、ただ、神様により頼むこと、そして自分の弱さを知り、ただへりくだること。つまり「良い木」であるキリストにつながることによってのみ「良い実」を結ぶ者とされるのです。
4: へりくだる 痛みを伴う
神様の愛につながるために「へりくだる」ことが「良い実」を結ぶことになるのです。自分で「何とかして良い実を結ぼう」とするのではなく、ただ神様の愛の前にへりくだり生きていくことから始まるのです。私たちが「良い実」を結ぶためには、「自分」という「木」から離れて、「キリスト」という「木」につながる必要があるのです。へりくだること、自分の人生、価値観、正しいと思っていたことを、一度捨てること、そこには確かに大きな痛みが伴うのです。私たちは自分の価値観を捨て、へりくだり、神様によって愛されているという価値観に生き始めましょう。(笠井元)