1: 箴言
今日の、この『箴言』という書物は、その1章1節に「1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。」とあるように、その多くの言葉はイスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの言葉として記されています。ただ、現在では、実際にソロモンが記したとされる言葉もあれば、ソロモンが収集した資料、またソロモンに由来する言葉、そしてソロモンとは特に関係もない資料も含まれていると考えられています。そのような中で、今日の箇所は、特にソロモン王が記したとは断定できない箇所で、ソロモン王の時代より、後の時代の王様の時代に記された言葉だと考えられているのです。このソロモン王よりも後のイスラエルの歴史は、まず、ソロモン王の死後、そのイスラエルの国は、イスラエルとユダという二つの国に分裂していきます。そのなかで、時には神様に従い生きる王様もいましたが、最終的には神様から離れ、結果としてアッシリア、バビロンによって国は滅ぼされ、捕まえられていく、そのような暗闇の時代へと向かっていくのです。
今日の箇所は、神様から離れていく、そのような時代のイスラエルの人々に向かって、「神様に従うことの大切さ」を教えている言葉なのです。イスラエルはソロモン王のあと、二つの国に分かれ、様々な王様によっておさめられていました。人間である王様が国を治める時代には、大きな誘惑がありました。王様には、「自分が自分の力でイスラエルの民を治めている」と考えてしまう誘惑があり、イスラエルの民には、「自分たちは王様に従うべきだ」という誘惑があるのです。
本来イスラエルの民、そして、私たちを含めた全世界を治めておられるのは、神様なのです。王様という権威を持つ者がいるときに、どうしてもその神様の存在を忘れてしまうのです。そのような中で、今日の箇所は、全世界の造り主、世界を愛され、人々を慈しみ、今も共に生きてくださる方、「神様に従う」ことの大切さを語っているのです。
私たちはこの「神に従うこと」について、今日は、4つの視点から学んでいきたいと思います。
2: 神様との関係
「21:1 主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。」
まず一つ目に「神様に従うこと」として、その基本に、神様がいてくださり、そして自分がいる。 「わたし」と「あなた」という関係があるということです。ここでは「主」と「王」という関係で記されていますが、「神様」と「人間」つまり「神様」と「私たち」という関係があることを見ることができるのです。「わたし」と「あなた」という関係があるということ、それは私たちは一人ではない、孤独ではない、向かい合ってくださる方がいるということなのです。
「愛」の反対は「無関心」と言われています。「愛」「喜び」「幸せ」は、だれかとの「関係がある」ことから始まるのです。もともと人間は、「わたし」がいて「あなた」がいる。その関係に生きています。
わたしたちは生まれた時から、ひとりではなく、そこには親、生んだ人がいるのです。そして、その関係に生き始めるのです。初めての人間関係は「親」と「子」という関係から始まるのです。そこから「愛」を知るのです。
しかし、現在は、親が小さな子どもの命を奪ってしまったり、また捨ててしまうというような、本当に心を痛めるようなニュースが数多く知らされます。このような出来事は、その親、その保護者だけの問題ではないでしょう。そのようにするしか、生きていく道がなかった。そのようにしなければどうすることもできなかった。と追い詰められた親の姿、そしてそのように追い詰めている社会全体の問題でもあるのです。
子どもにとって、どのような親でも、その人が親です。それ以外のなにものでもないのです。それが初めての「人間関係」なのです。しかしまた、「親」も完全な「愛」に生きることができるほど「完全」ではないのです。いろいろと考え、何が子どもにとってよいことなのか、悩み、それで時に苦しくなり、時に逃げ出したくなる。それが人間です。そのような人間の不完全さ、弱さの中で、私たちが本当の愛を知るために、神様は、私たちと関わってくださったのです。
今日の箇所は、「親」と「子」、その関係と同じように、むしろその関係を超えて、存在する、「神様」と「人間」の間に、「わたし」と「あなた」という関係があることを教えているのです。神様は、私たち人間一人ひとりを愛してくださっている。その愛は完全であり、私たちのすべてを受け止め、認め、そして向き合ってくださる関係なのです。「神様に従う」。そのまず一つ目に、神様が、私たちと向かい合う関係を持ってくださっているということを学びたいと思うのです。私たちは神様に愛されている者として、神様に従うのです。
3: 神様の御心に生きる道の定め
そして「神に従うこと」の二つ目に、この神様との関係は、「主の御旨」が「王の心」を水路のように方向を定められる、そのような関係だと教えられているのです。神様は私たちの道を整えてくださるということです。神様が「その方向を定められる」(2)この言葉を聞くと、どこか、この関係は神様が、私たちの道を決め、その道にしか歩くことができない。まるで人間は神様のただのロボットのような「主従関係」のようにも聞こえてしまうのです。しかしこの関係、神様が、私たちの生きる道の方向を定めてくださるという関係をはっきりとさせることは、とても大切なことなのです。
ここでは、神様が「主」であり、人間がその主に「従う者」であるという関係があるのです。
多くの人間は、この関係が逆になってしまって、人間が「主」であり、神様が「従う者」という関係になってしまっているのです。
皆さんにとって神様はどのような存在となっているでしょうか。どちらかというと、私たち人間が、神様に「神様、このようにしてください」と自分中心のお願いをして、「その願いを聞いてくれない神様は信じない」また「願いが叶ったから神様を信じます」という、とても自分中心の考えになってしまっているのではないでしょうか。これは、ただ自分の利益や欲望のために神様を利用しようとしている関係です。この関係は、人間が、「主」となり、自分の利益や欲のために、神様を利用し、神様が「従う」者となっているのです。それに対して、今日の箇所は、まず神様が「主」であり、神様ご自身がその御心のうちに、人間に生きる道を示し、定めてくださることを教えているのです。神様が、私たちの「主」として立つこと。それは、私たち人間の思いを超えた方の導きがあるということです。
現在、朝の祈祷会では創世記を学んでいます。是非皆さんも、時間をつくってご参加ください。
その祈祷会での学びの中で、先週は、創世記2章における神様の創造の場面から学びましたが、・・・その内容は、「神様が人間を塵から創造し、その人間に命の息を吹き入れられ、そしてそのことによって人間は生きる者となった」ということでした。わたしたち人間は、塵、そして土でしかない者である。人間はだれも、その命を創りだすことはできないのです。神様が人間の命を創り、人間は神様によって命を与えられ、守られ生かされているのです。この関係は決して変わることはないのです。
科学の発展によって、私たちは、だんだんと宇宙のしくみを知るようになってきています。そして、そこからわかるのは、そこにある地球や宇宙の素晴らしさであり、それは最終的に神様の創造の素晴らしさを知ることになるのです。この宇宙、世界を創られた神様が、塵のような小さな人間の「主」となってくださる。そしてその御心のうちに、生きる道、その方向を定めてくださるのです。それはとても素晴らしいことなのではないでしょうか。私たち人間は、それほどの偉大な存在である神様に愛されている。そしてその神様の御旨に従うことが許されているのです。これが、私たちが従う意味、「創造主なる神様の御心」に従うということです。
4: 従う方 イエス・キリスト
「21:2 人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。」「神様に従う」その三つ目として・・・この「神様」と「人間」、「主」と「私たち」という関係がありながらも、それでもなお人間は自分のことを「主」とする者である。人間はそのような弱さを持っているのです。そしてだからこそ神様は、「人間として神様に従う方」を送ってくださったのです。
今日の2節では「人間の道は自分の目に正しく見える。」(2)となります。この言葉は新改訳では「1:2 人は自分の道はみな正しいと思う。」(2)となっています。人間は、自分の道がすべて正しいと思ってしまうのです。私たちは自分が正しい、自分は間違ってしまうと思ってしまう者なのではないでしょうか。 そして、神様は、そのような人間の弱さをも含めて愛された方として、神様に「従う方」をこの世に送ってくださったのです。神様はこの世に「従う方」としてイエス・キリストを送って下さいました。
2節に「人間の道は自分の目に正しく見える。」の続きに「主は心の中を測られる。」とあります。つまり、私たち人間が自分を「主」として生きる、その人間の弱さや心の痛み、そして苦しみを、主はすべて知ってくださるのです。イエス様は、神様の愛の御業として、この世に来られました。そして、イエス様は、神様に従う道、そして他者に従うという道を歩まれたのです。イエス様がこの世において生きた、その人生は、まさに「従う」人生、そして「仕える」人生でした。当時の社会では、罪ある者、または病気を持つ者、律法を守ることができない人は、社会においてさげすまれていたのです。それは今の社会でも変わることはないのかもしれません。弱い者、貧しい者、社会に適応できない者。そのような者が見捨てられていくのは、今も変わらない。そのような心が私たち人間にはあるのです。弱い者は社会から追い出され、一人ぼっちにされていくのです。
しかし、イエス様はそのような人々のところに来てくださったのです。そしてただ来るだけではなく、そのような者に仕える者、つまりその「心を知り」「心の痛みに寄り添い」「支え」「共に生きる者」となってくださったのです。イエス様はすべての者の「従う者」「仕える者」そして、「共に生きる者」となられたのです。神様はこのイエス・キリストを通して、傲慢な人間に「従う道」を開いてくださったのです。
5: お互いに従う道
神様は、私たちに従う者としてイエス・キリストを送って下さいました。イエス様は、私たちの心を知り、従い、仕え、そして共に生き、祈り、支える道を歩まれたのです。「神様を主」とする道、それはこのイエス・キリストに従う者として生きること、私たちがお互いに仕える道なのです。 「神様に従う」こと、それは神様を「主」として神様に従うこと。そしてそれはお互いに「従いあい」「仕えあう」道を歩いていくことなのです。
四つ目の「神に従うこと」。それは、私たちが、共に、支えあい、祈り合い、お互いに従い合うということなのです。イエス様は、私たちに仕え、私たちと共に生きてくださったのです。私たちは、このイエス・キリストの「愛の道」を受け取り、神様を主とする者として、お互いに仕えあい、従う者として生きていきたいと思います。イエス・キリストは、私たちのために祈って下さっている。そしてだからこそ、私たちもまた、お互いに祈り合う者とされていきたいと思います。
「神様に従う」こと、それは、まさにイエス・キリストによって、神様を主としてお互いに支え合い、生きていくことです。私たちは、自分一人では、この世に生きていくことは、険しく、困難な道に見えるかもしれません。しかしそこに神様はイエス・キリストという、前に進み、前に歩むための備えをしてくださいました。私たちは、この神様に従う道を、一歩一歩、共に、歩んでいきたいと思います。(笠井元)