1: 山上の説教の言葉
今日の箇所において5章から始まった山上の説教が終わります。この箇所は山上の説教のまとめ、あとがきのような言葉となります。イエス様は山上の説教で様々な言葉を語られました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(7:12)「律法の完成」が山上の説教の中心メッセージだと言ってよいでしょう。
2: どこに家を建てるか
今日の言葉では「わたしのこれらの言葉を聞いて」・・・「行う者」と「行わない者」とを、家を建てることに譬えて教えられるのです。ここではどちらの人も「家を建てる」のです。主の言葉を聞いて、従う者も、従わない者も家を建てるのです。そして、ここで問題とされているのは、どのような家を建てたかではなく、どこに建てたかが問われているのです。
3: どちらにも訪れる危機
また、どこに家を建てたとしても、「必ず雨は降り、川が溢れ、風が吹いて、家を襲う」のです。私たちの知恵や知識を超えた出来事が起こるのです。私たちの人生においては、必ず、私たちの思いを超えた危機が訪れるのです。それが何かはわかりませんが、「事故」「病気」「災害」そして「死」と、私たちは必ず人生の危機に立たされるのです。
4: キリストという土台
「主の言葉を聞いて行う者」とは、何かができる者ではなく、イエス・キリストを土台として生きる者です。神様は、この世にイエス・キリストを送ってくださいました。ただ、神様の一方的な愛によって、私たちにイエス・キリストという愛の土台が与えられたのです。そのうえで、私たちに問われているのは、イエス・キリストを土台としていくか、それとも別の何かを土台とするかということが問われているのです。
5: 何のために生きるのか
イエス・キリストを土台としていくことは「自分のためだけに生きる」ことからの解放です。私たちは何かを土台として、何かのために、何かを背負い生きていくのです。山上の説教では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6:33)と教えました。主イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちの土台となってくださいました。私たちはこのイエス・キリストという神様の愛を土台として生きていきましょう。(笠井元)