1: 社会からの排除
今日の箇所は、「山上の説教」の直後となります。山から下りてきたイエス様が一番最初に出会ったのは「一人の重い皮膚病を患っている人」(2)でした。当時、重い皮膚病にある者は自ら「汚れた者です」と言い、町の外に一人で住まなければならなかったのです。重い皮膚病の者は宗教的に「汚れた者」とされ、社会的に差別され、病気という肉体的な苦しみ、宗教的な断罪、社会と他者との関係の断絶という非常に大きな苦しみを受けていたのです。
2: 御心ならば
重い皮膚病の人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(2)と言いました。「御心ならば」、つまり「わたしを清くすることは、イエス様の御心でしょうか」と問うているのです。重い皮膚病の者は不安と疑いの中で、それでもイエス様に近づいていったのです。 差別の中に留まるのか、それとも不安を振り切り、一歩、歩き出すのか。この者は自分の人生のすべてをかけて一歩前に出て行ったのです
3: 手を差し伸べられた
イエス様は手を差し伸べ「触れられた」のです。この行為は、何よりも、この人の心の痛みに触れられた行為です。イエス様は、この人が苦しんでいる一番の心の痛みに手を差し伸べてくださったのです。イエス様はただ言葉で「あなたは癒された」と言われたのではなく、その心の痛み、社会との断絶、他者と関係を持つことが許されない、だれも隣に来てくれない「孤独」という心の痛みに手を差し伸べ、触れてくださったのです。ここにイエス様の救い、癒しがあるのです。
4: 社会的回復を得た者 どのように生きるのか
重い皮膚病の者は癒されました。イエス様は「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(4)と言われました。「祭司に見せる」ということは、当時のイスラエルにおける社会復帰を意味していました。イエス様は、この人がこれから一人の人間として社会で喜んで生きるための指示をなされたのです。
重い皮膚病の者は、新しい一歩を歩き出しました。差別や迫害に生きることから、新しい一歩を歩き出したのです。私たちもまたイエス・キリストの愛を受け取り、新しい一歩を歩き出しましょう。(笠井元)