1: イエス様のもとにやってきた百人隊長
百人隊長の僕が癒される出来事は、単にイエス様のすばらしい奇跡の出来事というだけではないのです。百人隊長とはローマの軍隊の小隊長のことです。百人隊長はある程度の権威の上に生きていたのです。部下に「行け」と言えばその部下は必ず「行く」のです。大抵のことは自分の力できたでしょう。しかし、この僕の病は違いました。百人隊長は「自分の力ではどうにもならないこと」に直面していたのです。
2: 人間の限界
人間が人間として生きるための「命の救い」を与えることができるのは、イエス・キリストのみです。自然災害、病気、事故、そして死。私たち人間にはどうすることもできない限界があります。その一番の出来事が「命」の出来事です。人間には「命」はどうすることもできないのです。ローマの百人隊長は、「僕の病」に出会う中で、自分の無力さを知り、人間の限界を受け止め、神様の前に謙虚に生きる道を選んだのです。
3: 御言葉を信頼する
百人隊長は「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言いました。なぜ百人隊長は一言だけを求めたのでしょうか。一つには、百人隊長の言葉にあるように「自分は来ていただくのにはふさわしくない」ということです。百人隊長は自己否定したのではなく謙虚な者とされたのです。もう一つには、百人隊長が主イエス・キリストを信じたということです。民族間の問題も、病気や異邦人といった問題も、まったく関係なく「わたしが行こう」と即答されたイエス様を信じた、そしてその方の一言を信じたのです。
ただ一言イエス・キリストの一言さえあれば命は癒される。聖書の一言は人間に新しい命を与える言葉であり、救いを与える言葉です。神様の御言葉には命があるのです。神様の御言葉は、私たちに生きるための力、勇気、希望、愛を与えて下さるのです。
4: 執り成し
今日の会話は「百人隊長」と「イエス様」のやりとりでした。ただ、実際に癒されたのはその「僕」です。僕自身は何もしていないのですが癒されたのです。それはただこの百人隊長の執り成しによるものでした。イエス・キリストは私たちのために命をかけて救いを懇願されているのです。私たちはこのイエス・キリストの執り成しによって、命を与えられ、今も生かされているのです。
キリストによって新たな命を得て歩き出しましょう。私たちは「僕」として癒されました。そして今度は「百人隊長」として、隣人のために執り成す者として歩き出しましょう。(笠井元)