1: 家族を愛する
今日の箇所は、イエス様による、「ペトロのしゅうとめの癒し」と、「悪霊に取りつかれた大勢の人々の癒し」の場面となります。わたしがこの箇所を読んで、一番最初に驚いたことは、ペトロが結婚していたということです。ペトロには、妻がいて、その母親として、しゅうとめがいたのです。ペトロは、マタイの4章でイエス様に従ってついていくのですが・・・そのときはイエス様が漁師であるペトロに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(4:19)と言われ、その言葉を受けたペトロは、漁師としての道具、その網を捨てて従ったのです。ペトロは仕事道具である「網」を捨ててイエス様に従った。それはペトロの持つ、すべての物を捨てて、イエス様に従ったのだと思うような言葉です。しかし、ペトロはイエス様に従う時に、その生活のすべてを捨てていたのではなかったのです。妻がおり、しゅうとめもいた。つまり家族という関係を断つことはなかったのです。そして、その後、イエス様の十字架と復活を伝える伝道の時も、家族がいたとされているのです。ペトロが家庭を持ちながらイエス様に従っていたことは、イエス様の福音が、その家庭に向けても語られていることを見ることができるのです。
イエス様は別の場面ではこのような言葉を言います。「10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:37-39)
このようなイエス様の激しい言葉から、家族を愛することが禁止されているのではないか・・・と思ってしまうこともあります。しかし、この言葉の中心は「家族どうこう」ということではなく、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と教えているのです。イエス様の一番弟子ともされるペトロが、イエス様に従うにあたって、家族を持ち、大切にして従っていたことは、とても大切な意味を持つでしょう。イエス様は家庭を崩壊させるのではなく、家族を愛された。むしろこの世界を救うために、隣人を愛するように教えられた。そしてその一番の隣人とは、家族です。
現代には様々な宗教があります。その中でもいわゆる「新興宗教」「カルト宗教」と呼ばれる宗教の一つの特徴として、家族との関係、また隣人との関係の断絶を迫ってくるという特徴があります。「カルト宗教」は、その人間のこれまでの人間関係を断ち、その宗教に引き込んでいくのです。そのような意味では先ほどのイエス様の言葉「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)という言葉なども、その意味をきちんと理解しないで読んでしまうと、キリスト教もそのような「カルト」宗教となってしまう危険性をもっているのです。
しかし、このペトロの状態から見ても、イエス様はそのようなことを求められているのではないのです。むしろキリスト教が教えていることは、隣人との、その関係を大切にすること、切れてしまいそうな関係を修復すること、それが「愛」であると教えているのです。皆さんも「憎しみ」や「怒り」、「価値観の違い」など、家族でも、友人でも、時に、関係を断ち切ってしまいたいと思うことがあるのではないでしょうか。イエス様は、そのような私たちに、「わたしはあなたを愛している。あなたも自分を愛しなさい。そして同じように隣人を愛しなさい」と教えているのです。
2: ペトロのしゅうとめの回復
さて、少し話がそれてしまいましたが、今日の箇所では、ペトロのしゅうとめが癒されていきます。この癒しの出来事は、8章の1節からの癒しと3部作となっています。8章1節からは「重い皮膚病の人」が、5節からは「百人隊長の僕」が癒されます。そして、今日の箇所で「ペトロのしゅうとめ」が癒されるのです。
まず一人目の「重い皮膚病」というのは、その病気のために社会から追い出された人間、社会的にさげすまれた人間でした。そしてまた二人目の「百人隊長の僕」もまた、異邦人として、ユダヤ人の社会においては「救い」から外されている「汚れた」存在だったのです。つまり、二人とも、社会的にさげすまれ、受け入れられていない人間だったということです。そしてここで「ペトロのしゅうとめ」が癒されていきます。
「ペトロのしゅうとめ」もまた、社会から受け入れられていなかった。それが考えられる理由とは「女性」ということです。今日の箇所は、聖書の時代の「女性蔑視」の社会を表しているのでもあります。当時は「男尊女卑」、女性を蔑み、社会の一員として受け入れていなかったのです。そして、イエス様は、そのような立場の「女性」のところに来てくださったのです。ここでは「ペトロの家に行かれた」とあるように・・・イエス様はそのような「弱い立場の者」「さげすまれている者」のところに自らの意志を持って行かれたのです。そしてその病を癒されたのです。そのような意味で、このイエス様の癒しの行為は、単純に病気を癒されたということではなく、そのような立場の弱い者、社会的に受け入れられていない人、そのような痛みをもっている人のところに来てくださったということでもあるのです。
ペトロのしゅうとめは「寝込んでいました」。「寝込んでいる」と聞くと、「熱」で「寝込んでいる」くらいの病気に思えます。少しくらい「寝込む」ことは、現代のわたしたちでも、時々ありますので、わたしは、どこか少しその病気の重さが、それほどではないのではないかと感じてしまいます。しかしこの「寝込んでいた」という言葉は、この前の百人隊長の僕も「ひどく苦しみ」「寝込んでいた」とあるように、ただ「寝ている」だけではなく、ひどく苦しみ、寝込んでいる。もはや人間では手のつけようがない、どのようにすることもできない姿を意味していました。つまり、「ひどい苦しみの中にあって」もはや「死」を待つのみという状態。それはペトロも含め、家族のみんなが、もう、あきらめていたほどの病気、つまり「絶望」にあったでということでもあるのです。イエス様は、そのペトロのしゅうとめのところに来てくださった。そしてその状態を「ご覧になり」「触れてくださった」のです。イエス様は「重い皮膚病」の時と同様に「ペトロのしゅうとめ」にも「触れてくださった」のです。イエス様が「触れてくださる」ことによって、ペトロのしゅうとめは癒されていきます。それはもちろん肉体的にもですが、その手を付けることができない、どうすることもできないという思い、あきらめていたところに、イエス様が手を差し伸べてくださったということでもあるのです。もはやどうすることもできない。そのような絶望、その暗闇の中に・・・イエス様はきてくださり、手を差し伸べてくださり、そこに希望を与えてくださったのです。
イエス様の癒し。それはただ肉体的に回復するということだけではないのです。その「魂」を癒してくださる。心の底にある痛みに手を差し伸べ、「暗闇」を「光」で照らし、「絶望」を「希望」に変えてくださる出来事なのです。イエス・キリストは、私たちの心の暗闇に手を差し伸べ、癒してくださるのです。
3: 御言葉による回復
そして、この「希望」の癒しの出来事は、16節からの悪霊からの「御言葉による癒し」によって明確に表されていくのです。16節からは「悪霊に取りつかれている」多くの者が連れてこられたのでした。「悪霊に取りつかれている」とは、どのような意味なのでしょうか。「悪霊」というのは、なんとなくよくわからないものです。科学技術の進んだ現代では、そのような存在自体が信じられず、また、信じるとすれば「幽霊」のような存在として考えてしまうのかもしれません。
しかし、聖書がいうところの「悪霊」とは、そのような、どこかよくわらない、あやふやな存在ではありません。「悪霊」「悪魔」は別の言葉では「誘惑」「誘惑する者」とも記されています。「誘惑」は、私たち人間が、神様から離れていくようにする存在です。愛の基である神様から離れるようにする存在。それは、私たちが隣人と「共に生きる」のではなく、隣人を傷つけ、隣人を裁き、隣人を受け入れない。そのように「誘う」存在。私たちが自分勝手に生きて、「お互いに愛する」ことから「お互いを裁き、傷つけあう」ように「誘う」様々な存在です。その存在とは時に、「お金」「権力」というものかもしれません。ただ別に、そのような明らかに人間を陥れそうなものだけが「誘惑」となるのではないのです。
「食べ物」や「趣味」、もっと言えば「家族」や「友人」といった人間関係も時に「誘惑」になりますし、「恐怖」や「心配ごと」、「病気」や「事故」、時には「死」など、・・・つまり、簡単に言えば、見えるものから、見えないものまで、なんでも、その、すべてのものが「誘惑」となりうるということです。ただ、そのことすべてが悪いということではありません。「富」を得ることで、他者と共に生きることができるようになることもありますし、「病気」をもつことで、支えてくれている隣人の存在に気が付くこともあります。ただ、私たちの周りには「誘惑」がいつもあるということです。「誘惑」は、姿、形を変えて、私たちが神様から、そして隣人から離れていくようにする存在、そしてそれが「悪霊」という存在です。
そして、イエス・キリストの癒しとは、この「悪霊」からの解放、つまり神様から離れて行こうとする人間に、神様にもう一度目を向ける働きなのです。そして、イエス・キリストは、人間が神様に目を向け、その愛を見ることができるようになるために御言葉を与えられたのです。これがイエス・キリストの御言葉による癒しです。
イエス様は多くの「悪霊に取りつかれた者」を御言葉によって癒されたのです。御言葉には、癒しの力があるのです。時々、わたしのところにも、相談のためにいろいろな方がこられますが。どれほど、わたしが励ましてもまったく元気になることがなく、笑顔を取り戻すことができない方が、一つの御言葉によって、元気になることが多くあります。どんなに「いっぱい話しを聞いて、励ましても」それがどれほどの時間でも、主の御言葉のその一言にかなわないのです。それほど神様の御言葉は偉大な力を持っているのです。
神様はこの世界の創造の時、「光あれ。」(創1:3)と言われ、世界を創られました。ヨハネではこの創造の出来事をこのように言います。「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネによる福音書1:1-3)
神様の御言葉は、命を創りだす力を持っているのです。それは私たち人間の心を新しく造りだす力です。主の御言葉は、私たちの心の闇に「光あれ」と言い、光をつくりだすのです。神様の御言葉は、「人間の弱さ」に「愛」を、「絶望」に「希望」を、「闇」に「光」を、与えてくださる。新しく造りだしてくださるのです。この御言葉による癒しが、イエス・キリストによる「魂」の癒しなのです。
4: キリストが引き受けられた
イエス・キリストによる御言葉の力の源は、このあとの言葉に、その基が表されます。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」これはイザヤ書からの引用とされていますが、イザヤ書53章は、「苦難の僕」としての、イエス・キリストの、その十字架の姿を預言したとされる言葉です。イエス・キリストの癒し、その御言葉の力は、イエス様の不思議な力、人間を超えたすごいパワーとか、そのようなものによるものではないのです。イエス・キリストの癒しの御言葉は、イエス・キリスト自らが、その「病」を担い、その「痛み」を受け入れ、最終的にその命をかけて、「死」までも受けられた。その十字架の出来事による御言葉なのです。この世における、人間が受ける、「病」や「痛み」、そして「罪」や「暗闇」や「絶望」、そして「死」は、なくなったのではないのです。そうではなく、イエス・キリストが受けてくださったのです。イエス・キリストが、私たちが受けるべき「絶望」を十字架の上で受け取ってくださったのです。
イエス・キリストは、十字架の上で死なれた。しかし、そこで終わりませんでした。キリストは、復活なされました。この復活の出来事を通して、新しい命が創造されたのです。 そして、復活のイエス・キリストは、弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)主イエス・キリストは、私たちに「平和があるように」と語られているのです。つまり主の御言葉は、「絶望」のうちにある、私たちの心に「平安」を与え、「希望」を与えてくださる。主の御言葉は「希望」を新しく造りだしてくださる力を持つのです。
5: ペトロのしゅうとめの奉仕
最後に、癒された人間について、ペトロのしゅうとめから見ていきたいと思います。ペトロのしゅうとめは、イエス様に癒された後、起き上がり、イエス様をもてなしたのです。イエス・キリストによって癒され、新しい命をいただいたペトロのしゅうとめは新しい命を歩き出したのです。その道は、「もてなす者」となる道でした。ペトロのしゅうとめは「もてなす者」、つまり「仕える者」「奉仕する者」と変えられていったのです。この「仕える」ことは心の底から溢れる感謝から始まる行為です。
これまでのペトロのしゅうとめが、どのような人物であったかは記されていないので、わかりませんが・・・それがとても素晴らしく、いつも笑顔で、やさしい人間であったとしても、また逆に、とても冷たく、人に対しても厳しい人間であったとしても・・・「仕える者」となったのは、このイエス・キリストの癒しの行為を通して変えられ、そして「仕える者」となったのです。
わたしたち人間は、このペトロのしゅうとめと同じように、神様の御言葉の癒しによってのみ変えられるのです。そしてまた、逆に言いますと、この神様の御言葉がなければ心の底からの感謝によって、「仕える者」とされることはないということでもあります。本当に「仕える者」となるためには、このイエス・キリストの癒し、つまりキリストの御言葉による方向転換が必要だということを教えているのです。わたしたちは今、このイエス・キリストの癒しの御言葉をいただきましょう。愛されていることをいただきましょう。イエス・キリストは、今、このとき、私たちのために、生きて、わたしたちのために死に、そしてその痛みや苦しみを知って、受け止めてくださっています。そしてそのうえで、私たちに新しい命、新しい希望をつくりだしてくださっているのです。
私たちは、このイエス・キリストの御言葉を素直にいただきましょう。そして「愛する心」「仕える道」を、心にいただきたいと思います。「仕える」ことは「神様の愛の御言葉」をうけとった者に与えられている新しい人生です。この新しい道を共に歩き出したいと思います。(笠井元)