1: いやし
現在、わたしたちは、マタイによる福音書を読んできています。これまで、イエス様の誕生から、宣教の始まり、そして5~7章の「山上の説教」を聞いてきました。そして今日のこの箇所の前、8章の1節からは三つの癒しの出来事がありました。イエス様は、重い皮膚病の人、ローマの百人隊長の僕、そしてペトロのしゅうとめ、そして大勢の人々を癒されたのです。イエス様は素晴らしい奇跡の出来事を起こされました。そして今日の箇所において「群衆に取り囲まれる」のです。イエス様の癒しの出来事は多くの人々を引き付けられたのでしょう。しかし、イエス様は、この群衆を見て、「弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」(18)のです。この「いやしの後」というときはある意味、一番人々がイエス様を「神の子」と信じやすい時であったのではないでしょうか。「癒し」を行い、多くの人々を救われた方。奇跡を起こされる方。そのような力を見た後に、この方こそ「神の子」だと言われたら、多くの人々が信じたと思うのです。
この世には、何か奇跡のようなものを起こして、誘いこむような宗教がたくさんあります。わたしも、癒しを行うといった集まりがあると誘われたこともあります。またテレビでは、宙に浮いたり、信じられないようなこと、超自然的現象を行うことで、人々をひきつけていくような宗教もあります。ただ、それはある意味、何かをすることで、お金が増えるとか、よいことが起こるといった、詐欺と同じようなものだと思うのです。イエス様は人々を癒された。このとき、この癒しを見ていた人たちに対して、イエス様こそが「神の子、救い主だ」といえば、多くの人々が信じたことでしょう。しかし、イエス様は弟子たちに「向こう岸に行くように」命じられたのです。つまり、イエス様は、そこから退かれようとしたということです。
イエス様にとって、癒しの出来事は人々をひきつけるためのものではありませんでした。イエス様にとっての癒しは、その人の苦しみ、痛みを真剣に向き合う出来事です。なにか、それをだれかに見せて信じさせるような道具のようなものではなかったのです。イエス様にとって、癒しの出来事は、苦しむ者に向き合い、自分自身も同じだけの苦しみに立ち、そのうえで新しい命に生きる道を開かれる出来事でした。それは、イエス様の命をかけた出来事であり、神様から離れた者がもう一度神様の愛に触れるための、愛の行為であったのです。イエス様は、癒しによって、神様の愛を表したのです。
そして、このイエス様が退く中にあって、ひとりの律法学者が近づいてきて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのです。この人もまた、イエス様の癒しの業に驚き、感動した者だったのではないでしょうか。「どこまでもあなたについていきます」と言うのです。しかし、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(20)と答えます。この言葉は、イエス様が、ただ冷たく、自らに従うことを断ったという言葉ではないのでしょう。そうではなく「一度目を覚ましなさい」と教えられているのです。イエス・キリストに従うことは、何か奇跡的出来事にいつも与ることではないのです。それは「枕するところもない」ほどに人々から疎外され、受け入れられないことである。イエス・キリストに従う道は、華々しい素敵な道ではなく、十字架という「死」に向かう道。自分を捨て、自分のために生きることから、他者のために苦しみ、痛み、生きていくことだと教えられているのです。
2: 死んだものの主
そして、今度は弟子の一人がイエス様に言います。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(21) この「父を葬ること」は当時のユダヤの社会において、何よりも大切なことでした。それは、律法を超えてでも行うべき、最重要事項であったのです。そのような意味で、ここでは「是非、行ってきなさい」と言うのが、当時の社会の当然の答えなのです。しかし、イエス様は「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(22)と言われました。このイエス様の言葉はとても冷たい言葉に感じるのです。私も最初に読んだときには、「せめて父の葬儀くらい行ってからでもいいじゃないか」と感じました。ここで、間違えていけないことは、イエス様が、葬儀を軽視して、必要性を否定したということではないということです。今日の箇所を読むことで、イエス様は、葬儀自体必要のないもの、死んだ人のことなどどうでもよい、また「死」ということ自体がどうでもよいと、考えられていると思ってしまうことがあります。しかし、そうではありません。むしろイエス様は、だれよりも「命」を大切にされ、そのなかで「死」と向き合われ、また「死」が与える、痛みや苦しみを知ってくださる方なのです。イエス様もまた愛するラザロが死んだときに、涙を流されましたように、その死による苦しみ、痛みを知ってくださっている方です。
わたしがイエス様を「命の主」と信じた言葉にローマの14章の言葉があります。「14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:7-9)
この御言葉に出会ったのは、わたしの知り合いが、本当に明日には、生きるか、死ぬかという窮地に立たされている時でした。「死」にのみ込まれていくという恐怖の中で、祈り続けました。その中で、この御言葉に出会ったのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(14:9)この御言葉から、「イエス・キリストの十字架の死、そして復活され、生きられた『命』は、生きている私たちだけではなく、死んでいく人にも、すでに死んでいる者にとっても、為された出来事である。」という確信を得たのでした。そして、この御言葉によって、「死」を目の前にして、神様に信頼すること、イエス・キリストに委ねる心が与えられたのでした。
主イエス・キリストは死んだ者、そして死んでいく者、死に直面している者にとっても、「救いの主」なのです。私は、愛する人が召されていくときに、いつも「死」に対しての自分の無力さを感じます。私たちが何をしようとも、死んだ者のために何かをすることはできません。「死」に対して私たちは無力なのです。しかしイエス・キリストは違います。イエス・キリストは、十字架で死に、その死を超えてそのものの主となってくださるのです。そのような意味では、この「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(22)という言葉は、「私に信頼しなさい」「私は死んでいる者にとっても主なのである」と教えられている言葉でもあるのです。
3: まず行うべきことは何か
そのうえで、この言葉は、私たちに「まず何をおこなうべきなのか」ということを問うているのではないでしょうか。イエス様は、当時、この世において何よりも大切なこととされる最重要事項の「父の葬り」。それを超えて、「わたしに従いなさい」と教えられているのです。わたしたちの生きるこの社会には、生きていくために「しなけらばならないこと」「生きるために必要なこと」があります。そして「するべきこと」「した方がよいこと」があります。また、生きるためにしなければ・・・とは少し違い「自分がしたいこと」もあります。私たちが生きているなかで、「すること」は数えきれないほど、いつも押し寄せてくるのです。「仕事」「勉強」「宿題」「家族との交わり」「友だちとの付き合い」「趣味」「ボランティア」など、この世においてすることは沢山あります。
私たちは、この中で何をすべきなのでしょうか。イエス様は、「何をするべきなのか」という問いに対して、「まず、わたしに従いなさい」と言われているのです。それは、私たちが一番に考えるべきこと。私たちが何をするのかを考える、基準、その優先順位を考える基準に、「主イエス・キリストに従う」ということを基準としておきなさいと言われているのです。
「まず」「第一に」「イエス・キリストに従う」。これが、私たちに与えられている生きる生き方。生きる基準なのです。では、「イエスに従う生き方」として、神様を信じた者として、この世から離れて、毎日賛美し、パラダイスに生きているように生きることが本当に「イエス・キリストに従うこと」となるのでしょうか。むしろ、わたしたちは、毎日、聖書を読み、礼拝をし、祈っている。そのように生きていくことができるのでしょうか。わたしは、東京基督教大学という全寮制の神学校に行きました。そこでは周りは全員クリスチャン。しかも全員献身者という、まさに「神様を信じた者」ばかりの環境にいました。しかし、それでも、そこに人間が二人いれば、その関係には、喜びも、痛みも、争いも起こるのです。
わたしたちは、人間として、この世において、そのしがらみの中で生きている、生きていかなければならないのです。イエス・キリストもまた、今日の箇所の前、8章では、まず3人の人を癒されました。そのためにイエス様は、苦しむ者の隣に立ち、触れ、祈り、その苦しみや悲しみ、心の叫びを共に受け止められたのです。これがイエス・キリストの生きた姿であり、私たちが従う道です。
私たちが、「まず、イエス・キリストに従う」こと。それは、自分だけがパラダイスにいることではなく、隣人と共に生きること。他者のために、この世で傷つくこと、「しなければならないという」しがらみがある中で、他者を愛すること。この押し寄せてくる様々なこの世の「苦しみ」や「痛み」、その道を生きる中で、その中で、生きる基準として「イエス・キリストに従う」という基準を持つこと、それが「イエス・キリストに従うこと」なのです。
4: イエス・キリストに従うために
イエス・キリストに従うということ。そのような生きる基準を持つことは簡単なことではありません。何かをしていれば、それがすべて正しい、それだけで良いということはなにもないのです。何をするにしても、私たちは、それが正しいことなのか、それが本当に、イエス様に従う道となっているのか、考え、問い続けていかなければならないのです。それは、同じことをしていても、それが正しいこともあれば、間違っていることもあるということです。
以前、神学生の時ですが、クリスマスイブ礼拝の後、寮に帰るときに、酔っ払って倒れている人がいたのでした。そのときは、礼拝の帰りでしたので、その人にとことん付き合うことができました。ただ、考えさせられるのは、これが教会の礼拝に行くときだったらと考えさせられるのです。 イエス様の「善きサマリア人」の話から聞くならば、目の前にいる、その人を助けることが、本当の「隣人」となることになるのだと思います。しかし、行く道であれば・・・クリスマス礼拝での奉仕もありますし、その奉仕もしないで、イブ礼拝もしないで、その人を助けることができたのか。考えさせられるのです。
何を一番にするべきか。「イエス・キリストに従うこと」は何をすることなのか。自分がしていることが本当に、イエス様に従うことになっているのか、それは、問い続けて行かなければならないことなのでしょう。神様のため、他者のために痛みを持って生きる。そのために、私たちはどこまで自分を捨てて生きればよいのでしょうか。私たちはこの世において生きる限り、自分の生活も考えなければならないし、家族のことも考えるのです。それがこの世において生きることなのです。その中で、私たちは、イエス様に従い続けるのです。
わたしたちがまずすべきこと、それは「イエス・キリストを第一とし、イエス・キリストに従うことです。そして、それは何よりも、「主が私たちを愛してくださっている」からです。何もできなくても、たとえ主イエス・キリストを裏切ったとしても、イエス・キリストは、私たちを愛し続けてくださっている。それは変わることのないこと。私たちが唯一絶対、信じることができることです。私は、このイエス・キリストの愛を信頼して生きていきたいと思うのです。そのために、いつも自分自身を点検し、自分が今、何のために生きているのか、何のために行動を起こしているのか、振り返り、考えるのでしょう。自分の行動を振り返るとき、そこに私たちは自分の不完全さを知ります。しかし、だからこそ、それでも愛してくださっている、神様の愛をいただくのだと思います。私たち人間はあくまでも不完全な者です。しかし、だからこそ、イエス・キリストの愛が与えられているのであり、だからこそ、神の愛が必要であり、そして、その愛を喜ぶ者とされているのです。
5: 従いさせていただく希望
この後、弟子たちは、船に乗り、そして嵐にあいます。前にも後ろにも行くことができない状態になるのです。その中で、できたのは、8:25「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫ぶことだけでした。私たちにはイエス様に「助けてください」と叫ぶことが許されているのです。「イエス様、助けてください」と。どれほど小さく、弱い者でも、間違った道ばかり進んでいる者だとしても、イエス様に「助けてください」と祈ることは許されているのです。そして、主イエスは、私たちがどのような状態にあっても必ず助けてくださいます。このイエス・キリストの愛を信じること。そしてまた新しく生きていくこと。そこに本当に「イエス・キリストに従う」「従う力をいただく」のです。「イエス・キリストが私たちに仕えてくださる」その愛を受けて、私たちはその愛を土台として、互いに仕える道を知り、歩きだしていきたいと思います。
私たちは今、何をするべきか。イエス・キリストに従っていくために、何をするべきか。この問いを心に置いて。歩んでいきましょう。(笠井元)