1: 従った弟子たち
イエス様は船に乗りこまれました。この後イエス様は向こう岸のガラダ地方に着かれたのです。ガラダ地方とは異邦人の住む場所です。当時のユダヤの民は「異邦人は汚れている、関わってはいけない」と考えていました。そのような中でイエス様は異邦人の住む場所に向かい船に乗りこまれたのです。このイエス様に弟子たちは従ったのです。「従う」という言葉はここには記されていませんが、基本的には「一切を捨てて」ということを意味する言葉です。弟子たちは一切を捨ててイエス様に従ったのでした。
2: マタイの教会の状況
イエス様と弟子たちを乗せた船は、マタイが記された当時の「教会」を表していると言われています。当時のマタイの教会は、外からはローマ帝国とユダヤ教による迫害があり、また内からは、意見の違い、キリスト理解の違いからの内部分裂などがあり、まさに嵐の中にあって、壊れそうな船という状態にあったのでした。このことはどのような時代にあっても、教会は基本的に嵐に襲われている存在としてあるのです。
3: 嵐に出会う人生
私たちは、それぞれの人生において、嵐のような困難に出会うのです。それは、私たちがイエス・キリストを信じたから嵐に遭わないことになるわけではないのです。私たちの人生には嵐が襲ってくるのです。嵐に出会う時、私たちは何をすることができるでしょうか。
4: 「主よ、助けて下さい」
弟子たちは嵐の中で、イエス様に「主よ、助けてください」と叫んだのでした。嵐に出会うまで、弟子たちは隣にいるイエス様を寝かした状態、必要にしない状態だったのではないでしょうか。嵐の中、慌てふためき、どうしようもできなくなった時ようやく弟子たちは隣にイエス様がおられたことを思い出したのです。そして「主よ、助けてください」と叫んだのです。イエス・キリストを必要としたのでした。ここでは「主よ、助けてください」と叫ぶことを教えているのです。
5: 共に生きる方
イエス様は嵐を凪とされた。それはどのような困難も超自然的な力をもって打ち砕く、いわゆるスーパーマンのようなヒーロー的な救い主ではないのです。イエス・キリストによる救いとは、キリストが自らの命をかけてまで私たちを愛されたという行為によるのです。私たちが本当に苦しい時、そこにイエス・キリストは共にいてくださるのです。どのような嵐の中にあっても、主は共にいてくださるのです。共に生きてくださる救い主に「助けてください」と叫びましょう。(笠井元)