1 モーセの怒り(15-20)
モーセはイスラエルの声を聞き、姿を見て激しく怒ったのです。その怒りはすさまじく「手に持っていた板を投げつけ、砕いた」のです。この板については15~16節において、二枚の掟の板の重要性を示しています。
20節にあるように、モーセは像を砕き、水の上にまきちらし人々に飲ませたのでした。人々に飲ませたとは、何もすることのできない金の子牛の無力さ、飲んだ人間の排泄物となる汚らわしさを表しているのです。
2 指導者と共同体の責任(21-25)
アロンはイスラエルの指導者として間違った道を導きました。共同体は、国家、会社、学校、または家、そして教会、それぞれに、指導者には責任があり、共同体としては指導者に依存するのではなく、自立していくことの大切さを見ることができるのです。指導者は共同体が間違った道を歩き出さないように導き、共同体は指導者に依存するのではなく、神様により頼み生きることの大切さを教えられるのです。
3 招きと応答(25-29)
イスラエルの民にモーセは「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」(26)と言います。モーセは神様の赦しに応答する者は「集まりなさい」と招いているのです。しかし、多くの者は、モーセの言葉に耳を傾けなかったのです。
この言葉にレビ人が応答し、神様に立ち返ったのです。モーセは神様から離れた人々を、それが「兄弟でも友でも隣人でも関係なく殺しなさい」と教えるのです。神様に従うということは、レビ人のように「自分の兄弟、友、隣人を殺す」ことではなく、それほど、「家族、兄弟、友、隣人」と決別するほどの決心が必要なのです。神様の招きに応答することは、それほどに重く、難しい決心が必要なのです。
4 モーセの執り成し(30-35)
最後に30節から、もう一度モーセの執り成しの出来事が記されています。このときは、これまで以上のモーセの心を込めた赦しを求める祈りがあります。(31-32)モーセは自分の命をかけてまでも赦してくださいと願うのです。
神様は「わたしの書から消し去り」「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」と言われました。しかし、34節では「しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。」と言われるのです。神様は罪を罪として罰する。しかしその罪のゆえに捨てるのではなく、先立って行き導くとされるのです。
神様は人間と共に生きて導いてくださるのです。神様から離れた時にはもう一度立ち返るように招かれているのです。神様に立ち返りましょう。(笠井元)