1: バプテスマのヨハネ
今日の箇所において、バプテスマのヨハネは弟子たちをイエス様のもとに遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3)と尋ねさせました。
このとき、バプテスマのヨハネは「牢」に捕えられていたのです。バプテスマのヨハネとは、イエス様の先駆者として、マタイによる福音書では、3章に登場します。バプテスマのヨハネは、マタイ3:3において、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3:3)と言われるように、「主の道」を整える者として、この世に来たのです。バプテスマのヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)と叫びました。この言葉は、イエス様の宣教の最初の言葉と同じ言葉となります。バプテスマのヨハネは、「罪の悔い改め」を叫びました。この言葉はこの世において、神様を忘れ、道にさまよっている人間に、神様へと目をむけさせる言葉でした。つまり、この後来られるイエス・キリストへ、その十字架と復活における神様の愛の出来事へと目を向けさせる、まさに「主の道」を整える者として現れたのでした。
バプテスマのヨハネは、このあとマタイの14章において、ヘロデ・アンティパスによって殺されることになるのです。ヘロデ・アンティパスは兄弟ヘロデ・フィリポの妻、ヘロデアを自分の妻としたのです。そして、そのことをバプテスマのヨハネから非難されたのでした。そのことからこのバプテスマのヨハネを捕えたのでした。今日の箇所では、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」(2)とありますので、すでにヨハネはヘロデ・アンティパスに捕えられて、牢屋に入れられていたことがわかるのです。
バプテスマのヨハネは捕えられ、牢屋の中にいたのでした。そして間もなく死を迎えようとしていた。そのような中で「キリストのなさったみわざ」(2)を聞いたのです。そして弟子たちを遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3)と尋ねたのでした。
2: 牢屋の中での疑問
バプテスマのヨハネはこの時、牢の中に捕えられていました。ヨハネは、「主の道」を整える者として現れ、生きたのですから、自身のこれまでの信仰からすれば、主イエスは「来るべき方」であることを確信できたのではないかと思うのです。しかし、このとき、ヨハネはイエス様に「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3)と尋ねるのです。ヨハネは牢屋で捕えられているという自分自身の向き合っている現実の状態から、そこに不安と疑問を持ち始めていたのだと思うのです。バプテスマのヨハネは3章でこのように言いました。【「3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」】(3:11-12)
この言葉から、ヨハネは、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(12)つまり、悪人は神によって裁かれ、正しい者が苦しむような世界は終わりを告げる。そのように考えていたと読み取ることができるのです。ヨハネは「神はメシア、救い主を送り、この世で、悪い者はうち滅ぼされ、正しい世界とされる」と信じていた、そのように期待していたのかもしれません。しかし、今、バプテスマのヨハネは牢屋に囚われているのです。牢屋の中で苦しみ、痛めつけられ、地獄のような状況にあったのです。 そのような現実に生きる中で、「本当に自分が信じてきた信仰は正しかったのだろうか。イエスをキリスト、救い主と信じてよいのか」「メシア、救い主が来たのなら、どうして自分はこのような状態にあるのだろう」「世界はなんで何も変わっていないのだろう」と・・・「疑問」と「不安」の心に陥っていたのだと思うのです。
このような「疑問」そして「不安」は誰もが思うことだと思います。私たち自身も、救い主、イエス・キリストを信じることに対して、「救い主が来たのにどうして、苦しみがあるのか」「神様がこの世を愛しているのならば、どうして地震や台風、津波といった災害に苦しむ者、病気や死に苦しみ悲しむ人がいるのだ」と。また、自分の目の前に大きな試練が立ちふさがる時に、「神様なぜですか」と問い、悩むものではないでしょうか。バプテスマのヨハネのように「牢屋の中」にはいなくても、この世で生きている中では、まさに「牢屋」にいるような、どうすることもできない、逃げ出すことも、隠れることもできないような苦しみに捕えられていることがあるのです。
東日本大震災のときに、ひとりの少女がローマ法王にこのようなことを尋ねました。「私は日本人で7歳です。私はとても怖い思いをしています。大丈夫だと思っていた家がとても揺れ、同じ年頃の子どもがたくさん亡くなったり、外の公園に遊びに行けないからです。なぜこんなに悲しいことになるのか、神様とお話ができる教皇様、教えてください」東日本大震災という信じられないような災害に遭い、自分自身が怖い思いをし、多くの人がなくなる現実に出会う中で、このようなという質問をしたのでした。
これに対して、ローマ法王は「私も『なぜこのようなことが。他の人々は平安のうちに生きているのに、なぜあなた方は苦しまなければならないのか』という同じ問いを持っています」「我々は答えを持っていませんが、罪なきキリストがあなた方と同じく苦しまれたということは知っています。イエスの生涯を通して来られた真実なる神は我々と共にいるのです」「悲しみの中にあっても、たとえすべての答えを知らないとしても、神は我々の側におられ、我々を助けてくださいます」このように答え、励ましたのでした。
「なぜ困難があるのか」。この問いに答えることはとても難しいものです。ただ、聖書は、困難にあって「キリストが共におられる」「神様は私たちを見捨てているのではない。むしろ神様も共に悲しみ、痛み、生きておられる」と答えるのです。
3: どんな救い主を求めているのか
イエス様は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(5)と、バプテスマのヨハネに告げるように答えました。このとき、実際にイエス様は、目の見えない人は見えるように、口のきけない人が話すことができるようにし、多くの病の人を癒していたのでした。この言葉にバプテスマのヨハネはどのように思ったでしょうか。私からすれば、そんなすごいことが起きているなら・・・それだけですでにイエス様こそ救い主だろうと思ってしまいます。しかし、よくよく考えますと、それもまた、そこにある人間の常識を超えた力にひきつけられているだけなのです。つまり、常識はずれの力を求め、自分が満足しようとしているだけで、とても自分勝手で、自己中心的な考えなのかもしれません。ただ、目の見えない人が見えるように、口のきけない人が話すことができるようになり・・・死者が生き返るとしても、その出来事だけを求めているのならば、それはイエス様が与えてくださっている、魂の救い、心の底から愛と喜びで満たされるという出来事を見ているのではないのです。同じように、ヨハネにとってみれば、「目の見えない人が見えるようになる・・・」といった答えは期待外れの言葉だったかもしれません。少なくとも牢獄に捕えられている者が求める一番の出来事は「牢獄からの解放」でしょう。そのような意味では、イエス様の与えられる救いは、ヨハネの求める出来事とは違ったかもしれません。このイエス様の言葉は、イザヤ書がメシア、救い主の到来に起きることとして告げていることです。イザヤ書では、メシア、キリスト、救い主が来られる時、見えない人が見え、歩けない人が歩けるように、耳の聞こえない人は聞こえるようになると告げているのです。
イエス様は、この救いの出来事が起こっていると言われたのでした。「貧しい者が福音を告げ知らされている」のです。バプテスマのヨハネの目には、完全な救いの出来事ではなかったように、それは小さな出来事だったのかもしれません。しかし、イエス様は、そこに救いの出来事が始まっている。すでに福音は来ていると語っているのです。
わたしたちは「神様の救い」として一体何を求めているでしょうか。バプテスマのヨハネが一番求めていたのは、牢屋からの解放であったのかもしれません。また、当時のイスラエルの民はイスラエルをローマから解放する力強い王様の誕生を求めていたのです。また、イエス様の弟子たちは、イエス様に従いながら自分が偉い人になることばかりを話し合っていました。つまり、イエス様の弟子たちも、イエス様に従うことで、自分たちが偉くなることを求めていたと言うことができるのです。
イエス様が救い主として、この世に来られた意味は、基本的には人間にとっては期待外れのこと、人間が求める救いの意味とは違う出来事だったのです。確かに、主イエス・キリストは、病の者を癒し、死人をよみがえらせました。しかし、その救い主イエス・キリストは、その人生の最後に十字架で死なれたのでした。主は十字架に架かって死なれたのです。人間の手によって殺されたのです。病を癒し、死人をよみがえらせる者、ご自身が、十字架おいて殺されていったのでした。この十字架は、あまりにも無力で、弱い出来事だったでしょう。しかし、この十字架の出来事を通して、神様は、人間を罪の支配から解放されたのでした。イエス様は「11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われました。この十字架のよって始まった救いの出来事に「つまずかない」ように。それは「あなたにとって神様からの救いの恵みは十分である」ということを受け入れるように教えられているのです。
イエス・キリストの十字架。それはあまりにも無力に見えます。しかし、その弱さの中にこそ、「救い」は来られたのです。それは「飼い葉おけの中に生まれた」ように。低き者として、小さい者として、救い主は生まれたのでした。
4: 小さい者として来られた救い主
アドベントのこのとき、私たちは、「小さな救いの出来事」「人間にとって期待外れの出来事」「低き者とされる出来事」ここに「神様の救い」を見ていきたいと思うのです。私たちが生きる、この時は、すでにイエス・キリストがこの世に来られ、十字架で死に、そして復活をなされた時なのです。この世に救い主は来られたのです。救いの出来事は始まりました。
しかしまた、今ここに、完全な救いが到来しているわけではないのです。確かに、いまだ、この世には多くの困難があり、痛みがあります。いまだ、私たちが生きるこの世には、多くの問題があります。しかしそこにこそ、イエス・キリストが来てくださり共にいてくださっているのです。キリストは小さく、弱い者として、飼い葉おけに生まれて下さったのです。その姿は小さく、弱く、貧しい姿でした。しかし、確かにそこに生まれられたのです。そして、イエス・キリストは、この世において、罪ある者、虐げられている者、苦しむ者と共にいきてくださいました。そして、イエス・キリストは、その人生の最後に十字架の上で死なれました。惨めに、苦しみ、痛みの中で死んでいったのです。しかし、この十字架の出来事を通して、確かに、神様の救いが始まったのでした。イエス・キリストを通して、私たちは神様の愛を知る者とされました。この世界には、神様の愛が注がれているのです。わたしたちは、この世において、「躓かない」で生きること、信仰をもってイエス・キリストの到来を待ち続けていきたいと思います。
今、このアドベントの時、わたしたちは、どのような救い主を待ち望むのでしょうか。主イエス・キリストは、小さき者、弱き者として来られ、そしてそのような苦しみを共に受けて下さることを示されたのです。この低き者としてこの世にこられた、イエス・キリストによる救い、神様の愛に目を向けて、このアドベントの時を過ごして生きましょう。 (笠井 元)