1: 闇の中に来た光
聖書はこのように言います。「1:4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「1:5 光は暗闇の中で輝いている。」「1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 神様は、この世は、まことの光で照らされていると教えます。「言」とされる、イエス・キリストが「まことの光」としてこの世にこられ、すべての人間を照らすのです。
私たちは、今日、クリスマスを迎え、また、来週には一年の終わりを迎えますが、皆さんにとって、この一年間は、どのような一年間だったでしょうか。「光で照らされた」ような素晴らしい一年だったでしょうか。少し振り返ってみてください。私自身、この説教を作りながら考えてみましたが、わたしは、ここでは教会の牧師として、また幼稚園の園長としての仕事が与えられています。いわゆる、私も「二刀流」です。そのため、良いことも二倍、また、大変だったこと、苦しいことも二倍になりました。ただ、この一年を振り返り、一年間全体の感想を考えてみますと・・・私の出身教会の牧師、藤澤一清先生、また神学部の先生、天野有先生など、お世話になった方々が、多く召されたことを思い出します。そのような命の出来事から、人間の命のはかなさも感じると同時に、神様に与えられている一日一日の命の尊さを感じる一年でもありました。
そのような意味では、今、皆さんと共に生きていること、神様に生かされていることの恵みを大きく感じます。神様は、私たちに命を与えて下さっている。私たちは、この生きているということを神様の恵みとして、きちんと覚えるだけで、そこに、命の光、イエス・キリストというまことの光に照らされている恵みを感じることができるのではないでしょうか。私たちは、今、このとき、神様に命を与えられ、生かされている。そこに輝く命があるのです。
ただ、実際に、私たちが生きているこの世は、暗いニュースばかりが流れています。今年を表す漢字が「災」ということになりましたが、今年は特に多くの自然災害が起こりました。日本では、西日本豪雨、台風、北海道での地震などがありました。またアメリカでは大規模な山火事がありました。そのほか、世界の各地で災害が起きています。そして、それらの災害によって、今でも苦しんでいる被災者がいます。それだけではありません。私たちが生きるこの世では、人間同士の争いが絶えないのです。日本でも、ミサイルが来る、戦争が起こるといったニュースが流れ、その「起こるかも」という情報に人々は恐れたのです。私たちは「起こるかも」というだけで大きな恐怖を感じたのでした。しかし、世界には、今この時にも、事実、武力による紛争によって苦しみ、悲しみ、痛んでいる人々がおられるのです。「起こるかも」という恐れではなく、すでに今も、戦争によって、食べる物もなく、病院にも行けず、住むところもない。そのような人々が多くおられるのです。
聖書は、「この世は光で照らされている」と教えます。しかし。現実にこの世界を見てみると、「光の世界」ではなく、「闇の世界」に見えてしまうのではないでしょうか。少なくとも、私は、そのように感じてしまうのです。そして、だからこそ、このクリスマスに、皆さんと一緒に、この世界を見つめてみたい、そしてそこに本当の光を見つけたいと思うのです。確かに、この世界では暗いニュースばかりが伝えられます。しかし、私たちは、ただ「闇だけでしかない世の中」に生きているのではないのです。
聖書で、神様は「光あれ」(創世記1:3)と言われて、この世界を創られました。神様は世界の創造において、まず「光」を造られたのでした。この世界、私たち人間を創造される時、そこにまず「光」を創造されたのです。クリスマスは、この世にイエス・キリストが誕生し、わたしたちのうちにイエス・キリストが来られた出来事です。それはこの世界に「光」が来られた出来事です。そして、それは、この世界に、そして私たちのうちに「光」があることを示された出来事でもあるのです。
私たちは今一度、この世界、そして自分自身を見つめてみましょう。そこには必ず「光」があるのです。闇を打ち破る光があるのです。聖書はこのように教えます。「1:5 光は暗闇の中で輝いている。」「1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」イエス・キリスト救い主である「光」がこの世に来られた。そしてその光は闇の中で輝き、すべての人々を照らすのです。そしてその光は暗闇の中にあっても、その光を失うことなく、輝き続けているのです。クリスマスのこの時、わたしたちは、まずこの光の存在を覚えたいと思います。
2: 私たちが光を造りだす?
このように、「闇の中に『光』がある」という言葉を聞く時に、間違えてしまうのが、自分の中に「光り輝く力がある」「自分が光を造りだすことができる」と思ってしまうことがあるのです。
先日、テレビをみていたときのことですが、元テニスプレイヤーの方が「何事も『できる』と思い挑戦すること」の大切さを語っていました。その番組自体は、気力を失っている人に勇気を与える番組で、自分を肯定的に捉える大切さを教えていました。私たち人間は、自分の嫌いなところ、できないことを見ては、自分を否定的に考え、生きる気力を失ってしまう傾向がある。そんな中で、自分の良いところ、できるところを見て、肯定的に生きていこうということです。
また、あるサッカー選手の日めくりカレンダーでは「人生には山も谷もある。谷をも楽しんでいたい」とし、「いいときが楽しいのは当たり前。良くない時も、それはそれで楽しみたい。山も谷もあるから人生。楽しむ気持ちをもって、好きなことをやっていこう。谷でも楽しさが見つけられたら、モチベーションは自然に上がってくるはずだ。」と書かれていました。人生には山も谷もある。困難の時もあれば、良い時もあるということです。そしてその困難の時を、喜んで乗り越えていくことの大切さを教えているのだと思います。
ほかにも、いわゆる名言と言われる言葉には、人を励ます言葉、暗いときに考え方を変える言葉、元気がない人間を「それでも大丈夫」と受け止める言葉などがよく語られています。私自身、このような「自己肯定することを教える」言葉から、教えられることがたくさんあります。ただ、それらの言葉は、自分自身の中に「光」を造りだす。自分には力があるとし、その力を見つけ出すことを教えているのだと思うのです。あくまでも自分が「光」を造りだすことができるという考えなのです。
私たちは本当に、自分自身で、自分の中に「光」を造りだすことができるのでしょうか。確かに考え方を変え、物事を肯定的に捉える時に、一時的に、自分で輝き、自分を肯定的に捉えるようになることもできるかもしれません。しかし、それはあくまでも一時的なものでしょう。電球で言えば、一度切れた電池に新しい電池を入れ替えたようなものです。それはいずれまたなくなります。そして、また新しい電池を入れなくてはならなくなるのです。何度も何度も電池を入れ替えなければ、光り続けることはできないのです。何度も何度も電池を入れ替える、それが、本当の意味で、「光を造りだしている」ということができるでしょうか。
3: キリストによって輝かされている
聖書が教えるのは、私たちが「光を造りだす」ことではないのです。聖書は、私たちが光を造らなければならないと教えているのではないのです。むしろ、心を開いて「光」をいただくことを教えているのです。イエス・キリストという「まことの光」。その「まことの光」がこの世に、そして私たち一人一人のうちに来られたのです。イエス・キリストという光は、闇を打ち砕く、本当の光として生まれたのです。私たちはそのことを忘れてしまってはいないでしょうか。自分自身をもう一度、見つめ直してみてください。みなさんは自分を見つめる時に、どのようなものを見るでしょうか。自分には何ができるか、何ができないかとか、どんな良い点があり、どんな悪い点があるのかと見つめていないでしょうか。そして、私たちは、自分が輝くためには、できること、良いところを増やすことだと思っていないでしょうか。聖書は、私たちが光り輝くために、「あなたが何か頑張りなさい」ということではなく、自分自身の内に本当の光、輝く源、イエス・キリストがきていること、そのことを「素直に受け入れなさい」と教えているのです。
聖書はこのように言います。
「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1-3)「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)
「初めに言があった」。ここで言われている「言」とはイエス・キリストのことです。ここではイエス・キリストを「言」とし、そこから「言は神であった」「言は神と共にあった。」「万物は言によって成った。」と言い表すのです。ここには、イエス・キリストの神性、「言」が表す永遠性や創造主としての神としての性質を表します。そして、そのうえで、14節において【「言」は「肉」となった】と言うのです。神として、神の御子として、この世界を創造し、今も、そしてとこしえに生きておられるイエス・キリストが、ただ、その「聖さ」にとどまるのではなく、「肉」として、人間として、この世に来られたのです。ここで言う「肉」とは「汚れ」「罪」の象徴的な言葉とされます。イエス・キリストは、この肉としての汚れ、罪のうちに来てくださったのです。イエス・キリストは「肉」として、この世に生まれたのです。それは、私たちの闇を打ち砕き、そこに光を灯し、私たちを輝く者とするために、来られたのでした。
私たちが光り輝くこと。それは、この「真の光」「神であり、人となられたイエス・キリスト」を受け入れることなのです。私たちが光かがやく者となることは、何か素敵な人間になること、いろいろなことができるようになること、良いことがたくさんできるようになることではないのです。私たちが神様のところに昇っていくのではないのです。神様が私たちのところに来てくださったのです。そして、私たちのうちにある闇のなかに、光を灯してくださっているのです。
4: 光を証する
光輝くイエス・キリストはこの世に来てくださいました。私たち人間の内に、そしてこの世界の内に、その闇のなかに光を灯すために来られたのです。このクリスマスの時、私たちは、この恵みをいただき、喜びましょう。私たちはどのようなときでも輝かされているのです。どのようにあっても、たとえ、自分自身では、到底輝いているとは思うことができないとしても、皆さん、光輝く者とされているのです。この恵みを素直に受け取りましょう。
今日の箇所6節からはこのように言います。「1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ここではイエス様の前に来て、その道を整えるために来たとされるバプテスマのヨハネの事が記されています。
バプテスマのヨハネは、「光を証する」ためにきたのです。イエス・キリストは、私たちのところに来てくださいました。今、私たちには何ができるでしょうか。私たちは、その「光」を素直に受け取り、「喜びたい」と思うのです。イエス・キリストという光に照らされて存在していることを、ただ、素直に喜びましょう。
以前、幼稚園の研修の中で、講師の方が、このようなことを言っていました。「この自然はそのままで美しい」「自然を愛しましょう」「この空、この海、この山、この木、これら自然は素敵な存在です」。「自然を素直に見てみましょう」「とても素敵にみえるのではないでしょうか」私は、このことばを聞いて、「そうだな」と思うと同時に、「自然」だけではなく、「この世界」そして「私たち人間」も、「そのままで素敵な存在なんだ」と思わされたのです。神様が創造し、光を注ぎ、愛されている私たち、そしてこの世界は、素敵な存在なのです。たとえ、今は、私たちにとって、闇に覆われて希望が見えない世界だとしても、神様がこの世界に光を造り、今も注がれているのです。
わたしたちはこの神様の御業に信頼しましょう。そしてもっと心から喜びましょう。「あなたは光り輝いている」「そこにキリストがおられる」「あなたは素敵な存在です」「神様はあなたを愛してくださっている」。この神様に愛されている者として、喜びたいと思うのです。そして、その喜びを通して、イエス・キリストを証ししましょう。光は暗闇の中で輝いているのです。そして闇を打ち砕くのです。この闇に覆われていると思われる世界に、私たちの命は、光輝かされている存在なのです。私たちはそのことを喜び、イエス・キリストを証していきましょう。確かに、イエス・キリストはこの世に生まれました。闇の世界に光として生まれたのです。このクリスマスの時、この光の方イエス・キリストの存在を喜び、素直に光を受け取っていきたいと思います(笠井元)