1: 内側からの嵐
今日が、今年最後の礼拝となります。今年は皆さんにとって、どのような一年であったでしょうか。私たちバプテスト東福岡教会では、とても嬉しい出来事として、今年11月に劉雯竹先生を協力牧師として迎えることができました。そして、徐連月姉もこの群れに加わり、また、今年度から安里神学生を中心に青年会をはじめました。是非この青年の集まりから、多くの恵みが教会全体に広がることを願っています。また、附属の幼稚園、東福岡幼稚園では、これもとても嬉しいことに、多くの園児が与えられ、現在は、私が来てからは一番多い人数となっています。このように教会、幼稚園においては嬉しいこともたくさんありました。ただ、すべての人間にとって、この一年間が嬉しい事がいっぱいで、バラ色の毎日として過ごすことができたとは、言えないと思うのです。もちろん、教会でも、幼稚園でも嬉しいこともあれば、時に悲しい出来事や、苦しいこともあったのです。
私自身のこととして言えば、今年はフットサル、サッカーの小さいものですが、そのフットサルをしていて、ボールが耳にあたり、鼓膜がすこし破れてしまいました。また別の日には、ボールが目にあたり一時的にですが、下半分が見えなくなってしまいました。そして一番ひどかったのが、相手の足が顔面にぶつかり、ひどい顔になってしまい、数日は眼帯を付けることになってしまいました。とにかく怪我が多い一年で、少し年を考えてスポーツもしなければ・・・と思いました。
また、教会としては、兄弟姉妹が病気やけがになられた方がおられ、礼拝をお休みしなければならない、なかなか来ることができない方がおられます。世間に目を向けてみますと、今年は、なによりも、多くの災害があったと言えると思います。北海道での地震。大雨、台風による災害がありました。もちろん今年1年を振り返れば嬉しいこともたくさんありました。しかし、印象的には、各地で災害による被害が多かったと感じます。
聖書では、今日の箇所の前の箇所では「嵐を静める」と小見出しが出ているのですが、イエス様が、嵐を静めた箇所となっています。今日の箇所の前において、イエス様は湖の激しい嵐を静められたことが記されているのです。そして、今日の箇所では「二人の悪霊に取りつかれた者」が現れるのです。この「悪霊に取りつかれた者」とは、ある意味、心の内部からの「嵐」に襲われていた状態であったと言うことができるのだと思うのです。悪霊に取りつかれた者は、「墓場に住み」「非常に凶暴」で「だれもそのあたりの道を通れないほど」、人々にとって危険な存在であったのです。
この悪霊に取りつかれ者たちは、その地に住む人たちからすれば、危険な存在で、自分たちの生活を脅かす、加害者だったかもしれません。しかし、実際には、本人たち、心が悪霊に取りつかれている者自身、心の中が大きな嵐によって襲われ、人格を傷つけられ、苦しんでいた、被害者であったのではないでしょうか。
自分が思っていることができない。人を傷つけたいわけではないのに、むしろやさしくしたいのに、なぜか人を傷つけてしまう。そのように心が動かされていく。そして、そのように動かされる自分自身を受け入れられない。そのように心の中で、嵐に襲われているような、苦しい状態にあったのではないでしょうか。
幼稚園の子どもたちは、まだ小さいので、自分の心に思っていることを、うまく言葉にできないで、泣いてしまう子もいれば、ちょっと暴力的になってしまう子もいます。心の中にある思いを、上手く相手に伝えられないでトラブルになることもあります。そのような小さな子どもたちが、悪霊に取りつかれているということではありませんが・・・悪霊が心のなかに来て、悪霊が心を支配していく、その一つの状態としては、自分が思っていること、自分がしたいことが、うまく表現できない、伝えられないような状態があるのだと思います。悪霊は、人間の心を破壊し、神様と人間、人間と人間の関係を破壊するために働きます。心の中に嵐を呼び起こすのです。
2: 神の子の言葉
イエス様は、この悪霊に対して「行け」と言われました。この一言の言葉によって、悪霊は、人間から離れて、ここでは豚の中に入っていったのです。当時、ギリシア・ローマの世界には、悪霊祓いなる者たちがいたと言われています。そのような者たちは、色々な言葉、色々な行動を用いて悪霊祓いをしていたと言われています。そのような中にあって、イエス様は、ただの一言で人間のうちにある悪霊を追い出したのです。ここに神の御子、イエス・キリストの言葉の権威が表されているのです。
悪霊は「神の子、かまわないでくれ。」(29)と言いました。この時、このマタイ福音書では、初めてイエス様が「神の子」と呼ばれたのでした。このあと、マタイの16章でペトロがイエス様の事を「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と信仰告白をしますが・・・最初にイエス様を「神の子」と告白したのは、悪霊なのです。私たち人間よりも、悪霊は自分を滅ぼす力をもつ「神の子」の存在を、よく理解していたということでしょう。そして「神の子」イエス・キリストの言葉は、この悪霊にとって、偉大であり、権威ある言葉としてあったのです。私たち人間は、神様の存在、そしてその言葉の権威を、どこまで理解しているでしょうか。新しく命を創りだし、悪霊に打ち勝つ、神様の御言葉を、私たちは権威ある言葉として、きちんと理解して受け取っているでしょうか。
神様の御言葉は命を造りだす言葉です。「無」から「有」を、「絶望」に「希望」を与える力を持っているのです。この神様の言葉をきちんと聞く時に、どれほど苦しくても、どれほど暗闇の中にあっても、そこに必ず生きる希望が与えられるのです。神の言葉、聖書の御言葉は、それだけの大きな力を持っているのです。私たちは、聖書の御言葉、その福音の御言葉を、心を開いて聞いていきたいと思います。そこに、イエス・キリストによる悪霊からの解放、命の創造という救いの出来事が与えられることを覚えていきたいと思います。
3: 「その時」の始まり
悪霊は「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」(29)と言いました。悪霊は「まだ、その時ではない」と言っているのです。「その時」とは、いずれ来る「終末の時」を意味しています。「終末の時」、それは、「神の完全なる支配」「愛の完成」の時を指しています。
悪霊は、その働きとして関係の破壊、つまり愛の破壊を行うのです。その形は様々です。それこそ外からの嵐、自然災害という形の時もあるでしょう。そのような災害、または病気、死、そのようなさまざまな形をもって「神様の愛」を疑わせ、神様から離れる道へと導くのです。災害など私たちの頭では納得できない出来事が起こる時に、わたしたちは「なぜですか」と問うのです。「なんでこんなひどいことが起こるのか」、「なんでこんな悲しいことが起こるのか」。そしてこの疑問は、神様の愛、神様の存在を疑うものとなるのです。わたしたちが「なぜですか?」と問うことが間違っているのではないでしょう。わたしたちは何度でも神様に「なぜ」「どうしてこんなことがあるのですか」と問い、訴えてよいのです。
イエス様、ご自身も福音を宣べ伝える前に、悪魔の誘惑を受けられました。そこで悪魔は自分にひれ伏し拝むように誘惑します。それに対してイエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と答えたのです。イエス様も、人間として、この世に生まれ、私たちと同じように多くの喜びも、悲しみも受けられました。もちろん「なぜですか」と思うこともあったでしょう。そのうえでイエス様は「ただ主にのみ仕える」ことを選んで生きたのです。
私たちが、苦しい時、答えがでないような痛みの中にあるときに、覚えておきたいのは、イエス・キリストは、そこに共にいてくださっている。共に痛み、苦しんでおられるということ。そして、その痛みの中で、イエス様は神様に仕えて生き、そして最終的には十字架につけられ、死に、そしてそのうえで、新しい命を受けたということです。主イエス・キリスト、私たちの救い主は、私たちが苦しい時、そこに共にいてくださるのです。そして、このイエス・キリストの愛を疑わせ、離そうとするのが悪魔、悪霊の誘惑なのです。神様の愛の完成の時、それはそのような誘惑が一切なくなる時、つまり悪霊が滅ぼされる時なのです。
しかし、悪霊はまだ「その時」ではないと言うのです。確かに、この世において、私たちは多くの誘惑を受けています。この世には、理解できないほどの苦しみがあり、そして罪に満ちている。まだこの世界に「その時」「終末」は来ていないのでしょう。しかし、イエス・キリストがこの世に来られたことによって、「その時」つまり神様の救いの完成の時、愛の支配の時が、始まったのです。
4: 価値観の変換
悪霊は「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」(31)と言いました。そしてイエス様が「行け」と言われると「悪霊どもは二人から出て、豚の中に入り、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」のでした。豚の群れ、マルコによる福音書では2千匹もの豚が死んだと記されています。ユダヤ人にとって豚は、不浄の動物、汚れた存在でありましたので、悪霊の破滅が、この豚の死によってなされたことは、ユダヤ人にとっては、よく理解できたことかもしれません。しかし、この時、イエス様はガダラ人の地方、つまり異邦人の地にいたのです。ユダヤ人でない者にとって、この豚は大切な家畜で、大きな財産だったのです。この大切な財産が失われたことから、人々はイエス様に「出て行ってもらいたい」と言ったのです。確かに、このイエス様によって、多くの財産が失われたのですから、「出て行ってくれ」というのが当然かもしれません。
しかしよくこの状況を見ますと、ここではまず二人の人が悪霊から救い出されているのです。そして悪霊は豚に入り、豚が死んでいったのでした。豚には少しかわいそうですが、ここで二人の苦しんでいる人間が救い出されたのです。主イエスは、ここにおいて人の命、人の人生を守り、新しい命を与えられたのでした。ここに救いの出来事が与えられたのです。この出来事が伝えていることは、豚より人間の方が大事ということではありません。ただ、ここでは豚によって象徴される、「この世の財産」よりも、一人の苦しむ命の方が大切だと教えているのです。この悪霊に取り付かれた二人は、この世の中から見捨てられ、町の中に住むところもなく、墓場に住んでいたのです。誰も二人の苦しむ命を顧みることはありませんでした。そのうえで、イエス・キリストは、この誰からも見放された小さな魂の価値を認め、救い出してくださったのです。しかし、この時、人々は、二人が救い出されたことなど気にもしていないのです。むしろ自分たちの財産が失われたことにショックを受けているのです。イエス様による救いと、財産の損失があったなかで、ここで人々は、財産の損失に目を向けました。そして、イエス様に「出て行ってほしい」と言ったのです。 私たちは、自分の財産と苦しんでいる人の救いと、どちらを大事にしているでしょうか。経済的、物質的な損失と、人間の命の癒しとどちらを喜ぶのでしょうか。
今日の箇所において、イエス様は私たちに、何よりも大切なものが何かを教えています。どれほどの財産よりも、尊いものがある。それは「わたしたち一人一人」その存在がなによりも大切なのだと教えてくださっているのです。
先週はクリスマスでした。クリスマスはイエス・キリストがこの世にお生まれになったことを覚え、お祝いする時です。クリスマスの時、神は人間となられ、この世に確かに生まれたのです。神が人となり、この世に来られたのです。ここから「私たち一人一人」の救いの出来事が始まったのです。神様は自分のもつ一番大切な、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。そして、イエス・キリストを十字架につけることによって、この世のすべての者の痛みを共に受け、この世に生きる私たちの苦しみを担う者となってくださったのです。
これが神様の価値観です。この出来事は神様にとってみれば大きな損失、なによりも大切な御子を失うという苦しい出来事でした。それでも、そのイエス・キリストの十字架という苦しみの中に、神様は私たちに愛を示されたのです。このイエス・キリストの十字架を通して、すべての人間を救う方となられたのです。わたしたち人間は、この神様の愛をいただきたいと思います。この世において、イエス・キリストの十字架によって、神様の愛による支配がはじまりました。それはいずれ消えゆく、この世の財産や名誉を超える、大切な新しい命の創造の出来事です。この神様の愛をいただきましょう。そして新しい命を得て、神様の価値観、神様の目線で生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)