1: 絶望的困難に出会う
今日の箇所では、人々は中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のところへと連れてきたのです。そして、イエス様は、この中風の人を連れてきた人々の、「信仰」を見て、中風の人を癒されました。ここには、二つの人間の姿を見ることができます。一つは、中風の人、自分で歩くことも起きることもできず、人々に運ばれてきた中風の人の姿です。この中風の人を運んできた人々は、マルコでは4人の友人となっていますが、中風の人は、自分では何もできない中で、友人たちに運ばれてきた。中風の人から、そのような何もできない、本当に無力な人間の姿を見ることができます。そして、もう一つの姿として、中風の人を連れてきた人々の姿があります。
まず中風の人について見ていきたいと思います。当時、イスラエルでは「病気は、何かその人に罪がある」とか、「その親、先祖のだれかしらの罪によって、病になっているのだ」という考えがありました。そのような意味で、この人は、ただ病気によって苦しむだけではなく、社会的にも、罪人とされ、体の痛みもですが、その心、そして信仰においても苦しみの中にあったのです。そのような中で、この中風の人は、もはや起き上がることも出来なくなっていた。床に寝たままになってしまったのです。この姿は、もちろん病気による痛みもあったでしょう。ただ、それと同時に、信仰的にも、もはや起き上がることができない状態であった。もう一度、起き上がる気持ちも、立ち上がる勇気も、信仰も打ち砕かれてしまっていた。つまり、この中風の人は、起き上がることができない、信仰的危機に陥っていた。そのようにも読み取ることができるのです。
もともと、イスラエルにおいては、神様に対する信仰は、「赦される方」という考えがありました。私たちが、旧約聖書を読みますと、どちらかと言いますと「厳しい神様」「裁かれる方」というようなイメージを持つと言われますが、イスラエルの民にとって、神様は「赦される方」という存在だったのです。旧約聖書では多くの場面で神様の赦しが語られています。出エジプトではこのように語っています。【「34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」」(34:6-7)神様は罪を赦される方。この中風の人ももちろん、神様とはそのような方であるということを知っていたし、そのように信じていたでしょう。神様は罪を赦される方である。しかし、中風の人の現実を考えますと、病によって、肉体的にも苦しみを受け、社会的には罪人とされ、気持ちとしても、信仰的にも苦しみの中にあったのです。つまり、自分が信じて、理解してきた「赦される」神様と、自分が置かれている現実と、その状態にずれができていた。そして、そのずれによって、神様への信仰に疑問を持ち始めていたのです。まさに信仰的危機、神様を求める信仰を失い始めていたのです。
私たちも困難に出会う時、「神様なぜですか」と思い、その困難が続くと「神様、あなたはわたしをどのように思っておられるのですか」「私を愛しておられるのでしょうか」・・・「あなたはわたしを、そして人間を、そしてこの世界を見捨てられたのでしょうか」と、信仰的に疑問を持ち始めることもあるのではないでしょうか。私自身としても、これまで様々な困難に出会ってきました。その中で、大きな困難の一つに、先天的に病気を持っていることを知った時は、本当に生きる希望を失いました。私は、生まれながらにクリスチャンホームで生まれ、小学生でバプテスマを受けて、神様がいないと思ったこと、考えたことはありません。ただ、この自分の病気のことを知ったときに、大きな信仰的危機に陥りました。私は、「神様なんていない」ではなく、「神様はわたしを愛していない」「私を見捨てられた」と考えるようになりました。「神様の存在を疑うこと」ではなく、ただ、「神様が愛の方」であることに、疑いを持つようになったのです。皆さんも、そのような困難、絶望的な出来事に出会ったことがあるのではないでしょうか。
今日の箇所に出てきます、中風の人は、まさにそのような、「赦される神様」に疑いを持つ、絶望的困難の中にいたのです。信仰的に「神様の愛」「神様の赦し」に疑問を持ち、もはや起き上がることも、何もできなくなっていた。神様に向かい歩き出すことも、目を向けることも出来なくなっていた。それほどに心は疲れて、希望を失っていたのです。
2: 隣で祈る人々がいる
そのように中風の人が絶望の中にある中で、もう一つの人間の姿として、この中風の人をイエス様のもとへ連れてきた人たちの姿があるのです。先ほども言いましたが、マルコではこの運んできた人々は友人とされています。しかし、マタイでは特に「友人」とはされず、ただの「人々」とされているのです。この人々と、中風の人々がどのような関係であったかは記されていませんが、とりあえず人々は、中風の人をイエス様のところ連れてきたのですから、この人が、病気で苦しんでいたことは知っていたのでしょう。
幼稚園では、毎日の朝礼でマザー・テレサの言葉を読んでいますが、その中でよく、「あなたは隣にいる家族のことを愛していますか」、そして「あなたは隣の人のことをどれほど知っていますか」といった内容の言葉が記されているのです。私たちは、隣人のことをどこまで知っているでしょうか。家族のこと、お隣に住んでいる人のこと、今、隣にいる教会の兄弟姉妹のこと。私たちはどこまで知っているのでしょうか。
このとき中風の人を運んできた人々は、中風の人のことを知っていたのです。毎日苦しみ、痛み、肉体的にも、精神的にも、信仰的にも疲れ切っていたことを知っていたのです。そしてだからこそ、みんなでイエス様のところに連れてきたのです。中風の人は床に寝かされたままです。中風の人がイエス様のもとへ行こうとしているのではないのです。中風の人はイエス様に会うことを求めていなかったかもしれません。しかし、人々は、この中風の人々の痛みを知り、どうにかしたいと思い、イエス様のもとへと連れてきたのでした。
私たちが、中風の人のように元気のなくなってしまったとき、自分ではもはや起き上がる元気もないときに、一番なってしまうことで、同時に、一番怖いことが、自分は孤独だと思ってしまうことです。「自分のことを知ってくれる人はいない」、「自分は一人ぼっちだ」「誰とも話したくない」と思ってしまうとき、本当にどうすることもできない状態と落ち込んでいきます。私たちは、自分が苦しい時に、そんな自分のために、隣に祈ってくれている人がいることを覚えたいと思うのです。 私自身、先ほどお話した病気の中で、もはやどうすることもできないと思ったなかで、それこそ、だれも自分の苦しみを理解することはできないと、心にふたをしたような状態になってしまったこともありました。その中で、希望を持つようになった、一つのきっかけは、隣の人の祈りでした。「神様に見捨てられた」と思いながらも、特に理由もなく、なんとなく習慣的に祈祷会に行っていたなかで、一緒に祈ることになった方が、一生懸命、自分のために祈ってくれたのでした。この隣人の祈りによって、心を開くこと、それは神様にも、もう一度心を開くことができたのです。
私たちは、祈られている者なのです。教会はそのためにあるのです。信仰を失ったとき、神様に疑問をもったとき、もはや祈ることも、何もできないなかに陥ったときには、隣の人の祈りに任せてみましょう。私たちには、自分をイエス様のところに連れて行ってくれる、信仰の兄弟姉妹がいるのです。自分では神様につながることができないと思っても、その私たちのために祈り、イエス様とつなげてくれる兄弟姉妹がいる。そのことを覚えていたいと思うのです。
3: 心を知ってくださる方
そして、この祈りの中心に、イエス・キリストがおられるのです。私たちは「自分の痛みをすべて知ってくれる人などいない」と思うこともあります。先日、うちの子に、「少しはお母さんの気持ちを考えなさい」と言ったのですが、「心は見えないからわかりません」と屁理屈をいってきました。その時は、「こんなことが言えるようになったのか」と少し感心してしまいましたが・・・ 確かに私たちには他人の心は見えませんし、自分の心のすべてを他者が知ることはできないのです。 私たちの本当の心の中をすべて知っておられる方、それはイエス・キリストのみです。私たちのために命を掛けて生きて、死なれた方、そして復活された方、このイエス・キリストがすべての人間の心を知って下さっているのです。
今日の箇所において、イエス様は、中風の人を連れてきた、その人々の「信仰」を見られたのです。そして、同時に、「この男は神を冒涜している」とつぶやいた律法学者の考えも見抜かれたのです。イエス様は、そのようにイエス様を信頼している者も、またそれが、イエス様に敵意を持っている者だとしても、その心を、必ず知っていてくださるのです。ただ、それはある意味、とても恐ろしいことでもあります。イエス様は、私たちの心の底までご存知でおられるのです。その苦しみも、痛みも、または、憎しみや怒りという汚れた心も、すべてご存知なのです。そしてそのうえで、イエス様はそれぞれに必要な言葉を語られます。私たちは聖書から御言葉をいただく時、私たちの心を知っていてくださる方の言葉として聞いていきたいと思うのです。イエス様は、私たちを知り、その心の奥深く底まで、すべてを知って、そして私たちのために祈り、そして必要な言葉を語ってくださるのです。
4: 「子よ、元気を出しなさい」
私たちの隣には、私たちのために祈る兄弟姉妹、そしてその中心にイエス・キリストがおられます。 そして、イエス様は、すべてを知った上で、ここではまず「子よ」と呼びかけます。「子よ」。イエス様は、この中風の人に、「あなたも神様に愛されている子どもです」と呼びかけたのです。この呼びかけは、まずこの中風の人が持っている「自分は神様に見捨てられた罪びとだ」という思いを打ち砕く言葉でした。「あなたは神の子どもです」、あなたは「見捨てられた者ではない」「神様に愛されている」と宣言しているのです。
そしてイエス様は続けて「子よ、元気をだしなさい」と語りかけました。イエス様は、連れてきた人々の信仰を見て、このように言われたのです。「あなたは、ひとりで生きているのではない、あなたを祈っている人、そしてこのようにわたしのもとに連れてきてくれる人々がいるではないか」と教えてくださっているのです。「元気をだしなさい」。先ほど、私は「元気がだせない時は、隣で祈っている人の祈りに任せましょう」と言いました。わたしたちの隣には、私たちをイエス様のもとに連れて行く、信仰の兄弟姉妹がいるのです。だから私たちは、その信仰、そしてイエス様の愛に信頼したいと思うのです。自分ではもはや何もできない、起き上がることも、神様を見上げることもできない。そのような時にも、私たちは祈られている。そしてイエス・キリストは、私たちの心のすべてを知り、愛してくださっているのです。
そしてイエス様は「あなたの罪は赦される」と言いました。この「罪の赦し」こそ、イエス様が来られ、私たちすべての人間に語ってくださっている福音の中心にある言葉です。中風の人が持っていた心の痛みに「神様に見捨てられた」という思いがありました。そして「社会的に罪びとだ」とされている苦しみがあったのです。イエス様はこの中風の人の心を知り、その人にとって一番心の痛みとなっていることを知ってくださった。そしてだからこそ「あなたの罪は赦される」と言ってくださったのです。イエス様は、私たちの心を見て、私たちに一番必要な言葉を与えてくださいます。
5: 畏れと賛美
最後に、イエス様の権威について見ていきたいと思います。今日の箇所では、この中風の人の癒しと共に、律法学者のつぶやきと、群衆の畏れが記され、最後に、イエス様による神の権威と賛美について語られているのです。イエス・キリストは権威ある方です。ただ、その権威とは、この世的な権威、人を支配し、抑圧するといったものではないのです。それは、病を癒し、罪を赦し、絶望に囚われた者に希望という解放を与えるという、神様が本来なさることをされる権威です。このイエス・キリストの権威に出会ったときに、律法学者は、心の中で、「この男は神を冒涜している」(3)とつぶやきました。この時、律法学者は、イエス様に向かって、堂々と自分の意見を言ったのではありませんでした。ただ自分の心の内で、イエス・キリストによる神様の権威を受け入れなかったのです。神様はイエス・キリストを通して「罪を赦された」。それは、私たちを愛してくださっていることを表した、最大の行為です。神様は、私たちと共におられ、私たちを愛してくださっているのです。私たちには、この愛を受け入れる心があるでしょうか。目の前にある困難、痛み、苦しみ、または自分の持つ能力や知性によってそのことを拒んではいないでしょうか。私たちがすべきことは、イエス様が開いてくださったその扉を超えて歩き出すだけです。律法学者は、そのことを受け入れませんでした。むしろ開かれた扉を閉めようとしたのです。私たちに求められていることは、この開かれた心の扉を超えて、歩き出すことです。イエス様は「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(6)と言われました。寝たままで、起きることができなかった中風の人。それは神様を信頼することができなかった者。疑問や不安に包まれていた者が、起き上がり、床を担ぎ歩き出したのです。ここに絶望にある者に希望が、そして悲しみの中にある者に喜びが、呪いが賛美へと変えられたのです。中風の人は、イエス様に出会い、罪を赦され、癒され、神様の愛を知りました。そして喜びのうちに歩き出したのです。ここにイエス・キリストによる、神様の権威が表されたのです。神様の権威。それは愛です。罪が赦され、現実に、大きく生きる姿が変えられたのです。神様の権威。それは人を愛し、人を赦し、絶望に賛美を与えます。
これから、新しい一年が始まります。私たちは今、神様のイエス・キリストによる愛を受け入れましょう。主イエス・キリストは、私たちのすべてを知って、祈って下さっています。そしてそこには、多くの兄弟姉妹がいてくれる。隣で祈ってくれる兄弟姉妹がいるのです。私たちは祈られています。私たちは、今、このイエス・キリストによる神様の愛をいただき、心を変えられて、喜びのうちに生きていきたいと思います。イエス・キリストは、私たちを愛してくださっています。私たちは、この愛をいただき、そして、ここから歩き出し、今度は、私たちが祈る者、隣人のために祈る者へと変えられていきましょう。(笠井元)