私の住むアパートのベランダには梅の木の鉢植えがあります。この時期は少し蕾が膨らみかけていて、毎日眺めています。昨年は夏の水やりが良くなかったのか、老成させることに失敗して、ほとんど葉っぱでした。花は数個しかつかず、枝だけすくすく伸びました。一年がかりで、さて、今年はどうだろうと期待しています。
パウロはフィリピの信徒たちの手紙の最後の部分で、「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」(10節)と書いていますが、ギリシヤ語では、パウロを思う思いが枯れたかなと考えていたけれど再び、花開くように、「芽生えてきた」と言うイメージです。新しい年、私たちは、花を咲かせるべく、どのような芽生えの時を迎えているでしょう。
1.心遣いを喜ぶ
この個所はフィリピの信徒たちのパウロへの「贈り物への感謝」というタイトルがつけられています。フィリピ教会は獄中にあるパウロのためにエパフロディトという信徒を派遣し、献金を託してパウロを支援しました。(4:18)一旦ちょっと枯れたかなと思ったということですから、パウロとフィリピの教会との間に何か問題があったのかも知れません。手紙の最後に献金への感謝が述べられているわけですが、「感謝」という言葉はありません。むしろ、物質的援助そのものより、彼らのパウロに対する「心遣い」を主イエスにあって喜んでいると言います。もし人間同士のモノのやり取りが前面に出ると、「感謝が足りない」とか、「気が付かない」とか不平不満の余地があるでしょう。パウロはそれゆえ、モノのやり取りの背後のフィリピの人たちの「心遣い」を喜ぶと言います。パウロを支援しているのは、単なるモノのやり取りを超えて、パウロを通して働く「イエス・キリストの福音」に与ること、その労苦、苦しみに共に与ることであると言います。「心遣い」とそれを表現するモノとの関係は少し複雑です。ある信徒、しかも、本当に献身的な信徒の言葉ですが、「あの牧師のことを考えると、献金する気持ちが萎えてくる」と聞いたことがありました。私が牧師の時代には、十分の一献金をしていた人でしたし、ベテランの信徒でしたので、その言葉を聞いて驚きました。「あなたは、神様への感謝の応答として献金をしているのではなくて、牧師や教会のために献金しているのですか」と対応しておきました。むろん、その夫婦が献金を減らしたことはないと思いますが、気持ちは分かるような気がしました。モノを捧げることとその背後の気持ちとはどこか繋がっていて、そのつながりは大切ではありますが、では、捧げる気持ちが薄れてきたので、辞めますということであれば、それは献金の行為ではなくなってしまうことでしょう。こうして、捧げる側は、背後の気持ちと実際の捧げるモノの間の葛藤を生きているのでしょう。たぶん、支援を受け取る側も「感謝」の思いと「誰からも自由である」という思いのせめぎ合いの中で生きているのでしょう。いずれにせよ、私たちは、神に対して捧げものをする、それを通して福音が前進する、その喜びと苦労を共に味わうのであるという基本を外してはならないのです。
2.置かれた境遇に満足する
そうは言うものの、パウロは多少、弁解がましいことを語ります。自分は、「物欲しそうにこういうのではありません」。「物欲しそうに」とはちょっといやらしい翻訳ですが、口語訳あるいは新改訳の「乏しいから、こう言うのではない」の方が原語に近いです。英語でもwantは「欲しい」という意味ですが、もともとは「欠乏している」という意味ですね。窮乏状態を見て、何とかしようという気持ちは大切ではありますが、それが基本的動機ではなく、神の働き、福音の前進に与るということがキリスト者の基本姿勢であったら素晴らしいです。
パウロは、自分は「置かれた境遇に満足することを習い覚えた」といっています。日本社会でも「足るを知る」という言葉があります。限りない欲望をしっかりとコントロールをして生きることです。環境の変化に左右されず、変化に対処するためには「自足」することが大切です。パウロの当時は、ストア哲学というのがありまして、ギリシヤ・ローマ社会ではその禁欲生活が大切にされました。「足るを知る」ことは人間の「徳」として評価されていました。ただ、パウロは、それを自分の努力で身につけたというのではなく、「わたしを強めて下さるお方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)というように、主イエス様の助けによって、足るを学んでいると言います。これがキリスト教信仰の考え方です。
3.貧しさと豊かさに処する道
パウロは、さらに、12節では、当時の神秘主義、神秘宗教の悟りを指す言葉を使います。同じような内容が3セット繰り返され、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも」と言い、「満腹していても、空腹であっても」と重ねられ、「物が有り余っていても不足していても」いついかなる場合にも対処する「秘訣」を授かっていると語ります。まあ、パウロが「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」などを示す記録を目にしたことはありませんので、言葉の勢いのようなものでしょうか! パウロはもっぱら、「貧しく」しばしば「空腹」であり、「物が不足していた」ことでしょう。彼は天幕作りの働きをしながら、福音伝道に携わっていたわけです。IIコリント11:23以下には彼の苦労のリストが記されていますが、その中で。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(27節)と言っています。
そうですから、パウロが「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」などということはないのですが、クリスチャンになる前には、今で言えば有名大学出の博士のような人で、ローマの市民権を持っていた家庭で育っていましたので、「豊かであった」とか、「満腹している」とか「物が有り余っている」とかを経験していたのかも知れません。
私も牧師という仕事を選んだこともあり、多少は貧しさを経験はしていると思います。まあ、私より妻の方が苦労したと思います。ある時、東京駅から新幹線に乗り、名古屋に帰るときでしたか、お腹が空いたのでワゴン車で物を売りに来た女性に「サンドイッチはいくらですか」と聞くとサンドイッチを差し出しながら、「480円です」と言われ、いや「ただ値段を聞いただけです」と答えたときには、寂しい気持ちでした。300円しか持っていませんでしたので。スイス留学と言えば、聞こえが良いですが、牧師給の8割、ボーナスなし、本人の飛行機チケット片道分の支給でした。家族の分と帰りのキップは自分で稼げということで、春休み、夏休みはチョコレート工場でアルバイト、また、学期中は朝5時前に起きて学内の雪かきなどをしていました。人が歩くと雪が固まってしまうからです。チューリッヒの街を家族で歩いていると、ヴェトナムのボートピープルと間違われたのでしょうか、子どもに5千円札などを握らせてもらったこともありました。当時の日本は高度成長期でしたが、われわれの身なりは随分貧しく見えたのでしょう。そのような中でも貧しさが人間の心を支配するといけないので、1点豪華主義で、妻から1ケ就き千円のお小遣いを貰うと100グラム5000円、あるいは、3000円の宇治の玉露を買ってちびちび、こんな上等な煎茶を飲んでいる人はおるまいと得意になったりして、貧しさの中でも豊かに生きることを心掛けてきました。面白いのは牧師をしておりますと結婚式の披露宴に招かれる機会が多いのです。ある時は、宗教者として一番の上席に座らせていただきます。隣は一流企業の重役たちであっても気後れしないように、話を合わせます。ある時は、「先生、家族のようなもんだから、ここで良いよね」と末席に座ることもあります。「あはは、そうだね」と悪びれずに喜んで感謝します。人間として、貧にも豊かなにも対応できるように考えてやってきました。
4.神の国と神の義をまず求める
まあ、私の貧しい経験はどうでも良いことかもしれませんが、「わたしを強くしてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とまでは言わないものの、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ということがはっきりしていれば「これらのもの(この世の必要)はみな加えて与えられる」という単純で、自由な気持ちで生きることができることは確かです。そして、単純で、自由な生き方は牧師だけではなく、クリスチャン一人一人の重要な課題です。先週は堤未果の『日本が売られる』というショッキングな本を読みました。今の社会は生き残りをかけて国までが経済効率最優先で、米国と大企業の言いなりです。水道の民営化ということで、水まで芸国やフランスの外国資本に売り渡そうとしているわけです。自由化で、原発事故で汚染された土壌まで外国資本に売り渡そうとしているらしいですね。農地や森や海などの売り渡されようとしていると書かれていました。年金がいつまでもらえるのかも不安ですね。まさに、ありとあらゆる環境に対応できる姿勢と愚かなことにならないように目を覚ましている賢さが必要となるでしょう。「わたしを強くしてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言えるように生きたいものです。
5.福音のために共に苦しむ
皆さんは、牧師の立場とは違いますし、実際、私よりも貧しい方もおありでしょう。しかし、神の国と神の義を求めることによって、第一のものを第一のものとすることによって、思い煩いから解放されて生きることは大切なことです。また、全く、人間的な配慮や評価から自由な境地で献金することを通して、福音のために共に苦しみと喜びに与るという姿勢も素晴らしいことです。
最初に、木の芽が開花に向けて芽吹くというイメージに触れました。今年はどのような年になるのでしょうか。私たちの心の中にじっと温め、祈り願うことはどのようなことでしょうか? ただ神のみ名が崇められるように、み国がきますようにと祈りましょう。(松見俊)