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2019.1.20 「イエス様はあなたを招かれている」(全文)  マタイによる福音書9:9-13

1:  徴税人マタイを招いた

 今日の箇所においてイエス様はマタイという徴税人を招かれます。イエス様にとってマタイは、ただ「通りがかりに見かけた人物」でした。イエス様はそのマタイを「わたしに従いなさい」と招かれたのです。 

 ここで招かれたマタイについて少しお話しますと・・・まずここで、収税所に座っていたというところから、マタイはいわゆる徴税人、税金の取り立てをする人だったと考えられます。少し税務署の人に悪いのですが、現在でも、税務署の人が来るのはあまり喜ばれないかもしれません。

 少し前になりますが、この教会、また附属幼稚園に税務署からの監査が入りました。その時は、多くの資料を集めて、みせる必要があるので、実際、大変なことで、決して嬉しいことではありませんでした。また税務署の監査の目的は、もちろん不正をしていないかということもそうですが、私としては、とにかく少しでも、どこかに税金を徴収するところがないか・・・と探して、税金を徴収するということが目的ではないかと思ってしまうのです。 本来、税金とは、私たちの暮らしを豊かにするためのものです。一人ではできないことを、みんながお金を出しあって、必要なこと、学校を作ったり、道路を作ったり、困っている人を助けるためにと、様々なことに使うためのものです。私は、税金を集めるために国から遣わされているわけではありませんが、そのような意味では、本来、税金を支払うことは、喜んで行うことだと思うのです。ただ、現代の人々はあまり税金を快く支払うことができません。その一つには税金を使っている内容に納得ができていない。どこかで奴隷が支配者に支払っているように感じてしまっている。そのような思いがあるのではないでしょうか。

 この聖書における税金は、まさにそのような意味のものでした。当時、ユダヤの民はローマ帝国に支配されており、そのローマという国のために納めるものだったのです。自分たちを力で押さえつける者たちが、ただ自分勝手に裕福な生活をする。そのために、お金を納める。つまり、奴隷がいっぱい働いて、その収穫だけはもっていかれる。そんなことと同じ状態だと思うのです。そのようなローマに納める税金を徴収するのが徴税人だったのです。ユダヤ人の中で徴税人とはローマに魂を売った人たち、裏切り者、ローマの手先という立場にあったのです。しかも、徴税人たち自身も、ローマの権力が後ろにあるという、その立場を利用して、お金をだまして巻き上げてもいたのでした。聖書の別の箇所で登場する徴税人の頭であった、ザアカイの言葉には、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)とありますが・・・そのように、徴税人は貧しい人からもお金をだまし取り、自分たちだけが裕福になっていたのでした。

 イエス様が招かれた人は、このようなユダヤの裏切り者、徴税人のマタイだったのです。ここにイエス様がなぜマタイを招かれたかということは記されていません。ここでは、ただ通りがかりに座っていたのを見かけて、マタイを招かれたのです。イエス様はなぜマタイを招かれたのでしょうか。少し想像をしてみて、様々な理由を考えて、マタイの良いところから考えてみますと・・・

 たぶんマタイはお金を取り扱うことが上手であったでしょう。また、これは良いこととは言えませんが、人をだましたり、脅すことも上手であったかもしれません。また、現在はあまり考えられていませんが、このマタイがマタイによる福音書を記したと以前は考えられていましたので、福音書を書くほどに書記能力があったとも考えられます。ただ、そのような理由でイエス様がマタイを招かれたとは考えにくいと思います。ではどのような理由だと考えられるのでしょうか。ここでは、何か大きな理由があったからではなく、そこにマタイがいたから。イエス様が目を留められたからです。そしてそれはマタイが、特に何かできる才能がある者だったからでも、そのようなものがなかったからでもないのです。イエス様が選ばれるのは、何かが出来るから選ばれるのではないのです。イエス様は、マタイに目を留められた。それが徴税人という立場の者、財産はもっていたでしょうが、ユダヤの社会において蔑まれ、軽蔑された存在であった、マタイであった。イエス様はそのような徴税人マタイを招かれたのです。

 

2:  生き方の違い

 イエス様は徴税人マタイを招かれました。そして徴税人や罪人をと食事をなされたのです。ファリサイ派の人々は、このことを受け入れられませんでした。ファリサイ派の人々とは、厳格に律法を守っていた人たちでした。神様から与えられた律法を忠実に守り、だからこそ、律法を守らない人たちを罪人として、関わることもないようにしていたのです。ファリサイ派の人々からすれば、徴税人は、極悪人、詐欺師で、もはや殺人者と同じような人々でした。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。」(11)のです。このような極悪人を受け入れられないことは人間として自然な反応だと思うのです。私たち人間が、人間として、ただそのままの状態で生きていれば、極悪人と共に生きて、罪びとと一緒に食事をすることを、「心からそのようにしたい」と思ことはあまりないと思うのです。私たちが生きるこの社会は、一定の基準をもった集団の集まりでできていると言ってよいでしょう。

 たとえばですが、現代では、タバコを吸う人がだいぶ暮らしにくい社会となってきています。それはタバコが体に悪いから、しかも中毒性が強く、他者にまで害を与えるからとされるからです。以前は飛行機でも、新幹線でも、室内のどこでも喫煙するのが普通の時代もありましたが、現代では喫煙所を探すことにも苦労するほどです。

 決して、タバコを吸う人が極悪人ということではありませんが、今、タバコを吸う人と吸わない人とは、住むところが分けられてきていると言うことができるのです。また、驚きですが、インターネットなどをみてみると、この世には、戦争することを好んでいる人がたくさんいるのです。戦争をしたほうがよい、戦争して他国を滅ぼし、自分たちがよりよい生活をしようと考えている人たちが、この世に大勢いるのです。またそれほどまでに過激ではなくても、攻撃を受けないためにも武器を持つことには賛成だということ、いわゆる「抑止力」として、「武器を持つこと、基地を作ることは必要だ」という意見の方は、たくさんおられます。そのような中で、「戦争反対!!」「武器反対!!」と声をあげることのほうが、とても勇気のいる社会となってしまっているのかもしれません。それだけではありません。もっと簡単なことでいえば、時間を守る、守らないという違い、ご飯の食べ方、食べる物、文化の違い、言語の違い、様々な生き方、価値観、ルールの違いによって、同じ共同体では生きることができない、受け入れられない。そのようになっていくことはよくあることだと思うのです。

 私たち人間は、それぞれに違いを持ちながらも、お互いに少しずつ妥協して、社会を形成しています。ただ、それでもどうしても妥協ができないほどに、価値観の違う人たちとは、違う共同体を作り、別々に生活を始めるのです。それが私たち人間が作っている共同体です。ライオンがウサギと、蛇が蛙と一緒には生きることができないように、一緒に生きることができない。そのような基準を持つことが、私たち人間のほとんどの集団にはあるのです。

 今日の聖書では、ファリサイ派の人々にとっては、律法を守らないことは許しがたいことでした。それは、決して少し妥協すれば、受け入れられることではなかったのです。そのような徴税人と一緒に生きること、食事をすること、そして愛することができませんでした。そして同様に徴税人からしてみれば、自分たちを受け入れないファリサイ派の人々などと一緒に生きようとなど考えてもいなかったとも思うのです。このような受け入れがたい存在があるという価値観は、ファリサイ派の人々が特別なのではなく、私たちもそれぞれに持っていること、愛することができない人、受け入れられない価値観が、私たちにもあることなのです。

 

3:  すべての人が招かれている

 このような中にあって、イエス様は徴税人マタイを招かれたのです。それは神様がすべての人間を愛しておられ、すべての人間を招かれていることを表しているのです。つまり、イエス様に受け入れられない者はいなかった。イエス・キリストは、徴税人も含め、罪人も、またファリサイ派の人々も、イエス様は受け入れ、愛されたのです。イエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(12-13)私たちの救い主イエス・キリストは、「罪人を招かれるためにこられた」のです。それは、丈夫な人、健康な人、罪のない人は招いていないということではありません。神様の前にあっては、すべての人間が「罪人」であり、そして「病人」なのです。そこには徴税人のマタイも、そしてファリサイ派の人々も、ローマの人々も、そして私たちすべての者が含まれているのです。

 イエス様は、マタイによる福音書5章43節から、このように言っています。【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」】神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」のです。今日の箇所において、イエス様は『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(12)と言われました。この言葉はホセア書から引用した言葉で、本来の言葉では、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6:6)となるのです。ホセアは徹底的に神様の愛を語った預言者とされています。神様はすべての人間を愛された。どれほど人間が離れても、どれほど裏切っても、神様は、愛し続けてくださっているのです。ホセアは、神様の愛、その憐みを知り、信じることを求めたのでした。どのようになったとしても、神様が私たちを見捨てることはない。神様は私たちを愛し続けてくださっている。その憐みを語ったのです。

 

 そして、その愛の中心に、イエス・キリストが来られたのでした。神様は、この世にイエス・キリストを送って下さいました。そこに朽ちることのない愛が示されたのです。イエス・キリストは、すべての人間を受け入れ、愛し、そして、命をかけて人間と共に生きて、喜び、苦しみ、痛み、最後には十字架の上で死なれていったのです。そこには罪人も徴税人も、ファリサイ派も関係ありません。もちろん私たちも、私たちとは考えの違う人々も、たとえ、大きな犯罪を犯したものであっても、また自分は正しいと考えている人だとしても、イエス・キリストは、そのすべての人間のために、そしてその人間の持つ、弱さのためにこの世界に来てくださったのです。神様は、悪人にも、善人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせるように、すべての人間のために、イエス・キリストを送り、そこに愛を示されたのです。

 

4:  イエスに従ったマタイ

 ここで今、私たちが選ぶことは、このイエス・キリストによる神様の愛を受け入れるか、それとも受け入れないかということです。マタイはイエス様の招きに応え、立ち上がり、イエス様に従い歩き出したのです。ここには、イエス様がなぜマタイに目を向けたか、その理由も記されていないように、なぜマタイがイエス様に従ったのか、その理由も記されていません。理由を考えてみれば、マタイが徴税人という、ユダヤの社会において孤独な存在とされる仕事に疑問をもっていた。そこにイエス様の温かさを感じたなど、それなりの理由は考えられますが、ここでは、理由は記されておらず、ただ・・・マタイはイエス様の招きに応えたという姿があるのです。

 マタイは、イエス様に従う決心をしたのです。私たちもまた、すべての者がイエス・キリストに招かれています。私たちは今、どのように応答するのでしょうか。神様は私たちを愛しておられる。それは、私たちがどのような者であってもです。この神様の愛によって、神様との関係に生きる、その扉は開かれたのです。私たちは、その扉を越えて一歩踏み出すのか、今いるここに留まるのか、それが問われているのです。私は、このマタイが決心をしてイエス様に従ったように、私たちもまた、イエス・キリストに従う道を歩き出したいと思うのです。神様の愛を信じて、その愛を心に受け入れ、生きていきたいと思います。

 イエス様に従う道。それは、イエス・キリストが自らの人生を通して示されたように、いわゆる自分の価値観、自分の生きる生き方とは違う人々、本当は受け入れられないような違いを持つものを受け入れる道です。時にそれは今の社会の価値観において「罪人」「極悪人」とされる人と共に生きる道となるかもしれません。私たちにそのようなことができるでしょうか。イエス・キリストに従うため、その道を歩き出すためには、まず、自分のもつ正義、自分の価値観や倫理観、自分の考えを土台とした正しさが、絶対正しいと思っているところから離れなければならないでしょう。私たちは、間違いを犯します。私たちは、完全ではないのです。それなのに、私たちは自分の価値観が正しいとして、他者の考えを間違っているとしてしまうことがあるのです。

 私たちは、まず、神様の憐みによって生かされているという土台に立つ必要があるのです。イエス・キリストを土台とする必要があるのです。私たちは今も、そしてこれからも、ただ主の愛のみによって生かされているのです。この信仰に立ち続け、ただイエス・キリストに従い歩んでいきたいと思います。イエス様は今、私たち一人一人にむけて、「わたしに従いなさい」と招かれています。私たち一人一人に目を向け、出会い「従いなさい」と召されているのです。私たちは、このイエス・キリストの招きに応えていきましょう。(笠井元)