1: 砕かれた石の板
モーセはシナイ山に登り神様から言葉をいただきました。ただ、その間にアロンを中心としたイスラエルの民が金の子牛を造り、偶像礼拝を行うのです。モーセは二枚の掟の板を持って降りてきたのですが、このイスラエルの民の姿をみて板を投げつけ砕いてしまったのでした。
今日の箇所では、神様が思い直され、もう一度2枚の砕かれた石の板と同じ、2枚の板と記された言葉を、新しく与える場面となります。
2: 無条件の赦し
7節では「罪と背きと過ちを赦される」と宣言されます。それは何か条件を付けた「赦し」ではなく、ただ神様の慈しみによるものです。 モーセはこの神様の言葉に対して、「急いで、ひざまずき、ひれ伏した」と三つの行為を行いました。これは、神様の前にあって人間のなす最も適切な行為、対応とされています。
3: 赦しまでの過程
イスラエルの背信の後、神様は32:9-10ではイスラエルの民を「滅ぼす」と言われたのです。神様は、そのうえで33:19において、自らの自由の行為として、「忍耐」「慈しみ」「赦し」を選ばれたのです。
神様は裏切った者を愛され、慈しみ、忍耐をもって赦されたのです。ここに「赦し」が「恵み」としての意味を持つのです。
4: 驚くべき業
10節で「驚くべき業を行う」と言われます。ここで記されている「行う」という言葉は、創世記1章の「創造する」「バーラー」と同じ言葉です。この言葉の「創造する」という言葉は「無」からの「創造」を意味する言葉とされます。神様は「驚くべき」「いまだかつてない」業として「新しい創造」がなされることを示されているのです。罪ある人間を「赦す」とは、世界の創造に匹敵する大きな行為であるということです。
5: 応答
神様の一方的な赦しの上で、11-16では先住民との契約関係の禁止、17では偶像礼拝の禁止、18-26では、祭りと奉献にかかわる規定が記されています。礼拝をもって、神様の前に立ち、その関係を保つことを教えられています。神様がどれほど手を差し伸べても、その手に手を出さなければ、そこには関係は作られないのです。
6:モーセの顔の光
最後に、モーセは神様が語られたことをイスラエルの民に語ります。このとき、モーセの顔が光を放っていたのです。これはモーセの顔に神様ご自身の栄光の輝きが反映していることを表しているのです。このモーセの顔が光ることで、モーセが神様の代わりに語っていることを明確にしているのです。(笠井元)