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2019.2.10 「律法の時代における人間の自由」(全文)  出エジプト記20:8-10

1,時代の変化

 最近、テレビをつけると、「今年は平成最後の年だ」というニュースがよく目と耳に入ってきます。それに「新しい時代が始まる」というコメントが続き、「新しい年号はどうなるのか」という懸念も生じています。このように、「時代」という言葉ほど敏感に反応される言葉はないのではないかと思うほど、人は時代のことをいつも気にしているようです。ただ、年号が変わることに限らず、政治や経済の状況、市場や製品の進化によって時代の変化を感じることもあるでしょう。日本に留学した年、2006年に遡ってみると、博多駅はまだ新しく建て替えられておらず、今よりずいぶん落ち着いた街の風景だったことを思い出します。電気屋さんの中には、今流行っている8K4Kのテレビはなく、携帯ショップの中にもガラケーがいっぱい並んでいました。その後、身の周りの電化製品はどんどん進化し、多彩な機能や優れたデザインが整えられています。また10年ほど前、携帯の世界では爆発的な人気となったiPhoneが誕生しました。最近、そのiPhoneに搭載されている音声アシスタント「Siriシリ」の機能が話題になったそうです。「Siri」は音声案内に限らず、人間と会話することもできます。「あなたは家族がいるの」と一度中国語で話しかけてみたところ、「私にとって、あなたさえいれば十分です」と答えたのです。続いて「あなたの存在目的は何でしょうか」と問いかけてみると、「私は自分の内面について話すことがあまり好きじゃない」と返され、「じゃあ何か言ってよ」ともう一度お願いしたら、「私は自分から話すより、あなたの話を聞くほうが好きです」と、また上手に答えたのです。ある人がいたずらで「私と結婚して下さい」とプロポーズしたそうですが、「そうしたいところですが、用事があるんです」という返答があったのを先日インターネットで見ました。「機械は人間より賢い」とつい思ってしまったわけですが、人を傷つけないように、機械には巧みな言い回しのできるシステムが整えられたからだと思います。このように、「10年の間、こんなに変わったのね」と思ったところで、初めて時代の変化を実感しました。

 さて、キリスト教信仰に触れた私たちはどんな時に時代の変化を感じるのでしょうか。私は聖書を手に入れ、旧約聖書と照らし合わせて新約聖書を読む時に、時代が変わったなと思うことが良くあります。また数週間続いて笠井先生のメッセージを聞く中で、新約時代に生きる人間が自由と恵みがイエスキリストによって与えられたということに気づかされました。実は、聖書に「律法の時代」と「恵みの時代」があると言われています。ヨハネによる福音書117にこのような言葉が書かれています。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現されたからです」と。「恵みの時代」という名称は実はこの箇所から来ていると思われます。確かに、イエスキリストがこの世に来てくださることによって、新しく恵みの時代が始まりました。私もこのように信じています。ただし、このメッセージを聞く時に、このような誤解をしたくないです。それは、律法の時代に、恵みはまったく存在せず、恵みの時代に律法がまったく無効であるということです。使徒パウロはローマの信徒への手紙の中でこんな言葉を語られました。「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです」(ローマ3:31)。今日は、イエス様によって与えられた恵みに感謝しつつ、律法が与えられた時の時代背景、その時代における神の恵みと人間の自由を考えていきたいと思います。

 

2,出エジプト記の歴史

 旧約聖書には、有名な「十戒」をはじめ、様々の「律法」が記されています。これらの律法は、しばしば「うるさい規律」または「冷たい規則」のように思われることがあります。特に現代においては「律法」という言葉が言及されると、自由が奪われてしまうという恐れを多くの人は抱いてしまいます。しかし、なぜ神は律法を与えたのか。そもそも律法はどんな状況の中で誰に与えたものであったかということはあまり問われていませんでした。今日は出エジプト記の物語を見ながら、ご一緒にこの問題について考えたいと思います。創世記が大家族の歴史物語であったのに対し、出エジプト記は民族の歴史を記述しています。出エジプト記の歴史について、旧約聖書以外には直接の記録がないので、その記述を手掛かりにして歴史的にはどういう出来事が起きたかを推定したいと思います。恐らく、イスラエルの先祖のある人たちがひどい飢饉の時、食料を求めてエジプトに行ったと思されます(創1210、ルツ1:1-6)。そこで、この人たちは、外国人労働者として賦役労働に組み込まれ、厳しい労働に従事させられました。賦役労働というのは、公の事業のために、一定期間課せられるものであり、奴隷という身分ではありません。エジプトでの厳しい労働については、出エジプト記1章11節において次のように物語られています。「彼ら(エジプト人)はイスラエルの人々の上に賦役労働の監督を置き、重労働をさせ、圧迫しようとした。イスラエル人はファラオのために貯蔵のための町、ピトムとラメセスを建てた。」実は、ここで語られていることは、歴史的に信頼できると判断されています。なぜなら、ピトムとラメセスという町がエジプトの歴史で重要であったのはごく限られた時代だけで、後には忘れ去られるほどなので、後から作りだされた発言ではないと考えられるからです。出エジプト記に書いてある一連の出来事は、歴史的であると言われています。その時代において、過酷な労働に苦しめられたイスラエルの先祖たちは、エジプトから逃亡しますが、エジプト側は建設作業の労働力を確保すべく、軍隊を出して追いかけます。エジプトの軍団が、逃げ出した人たちに海辺で追いついた時、奇跡的な現象が起こり、それによってエジプトの兵士たちは滅ぼされ、逃亡者の群れは逃げおおせ、助かました。この出エジプト記の出来事は、神ヤハウェとイスラエルの関係によって重要な出来事です。旧約聖書の中に様々な人が神のことについてこのように紹介していました。「私たちをエジプトの地から導き出した神ヤハウェ」と。つまり古代イスラエルの人々は出エジプトの出来事を、神の救いの行為として理解したのです。そして、神様も十戒という律法の最初に同じように自分のことを紹介されました。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と。ご存知のように、「十戒」は旧約聖書の民の信仰と生活の根幹を表現するものですが、同時にそれは神の自己顕現の言葉でもあります。この自己紹介の中に語られているように、戒めは律法として独立的に存在するのではなく、神の意志を明らかにする恵みと繋がっています。

 

3,律法の時代に生きる

 つまり、神様は一つの律法を与える時に、その背後に必ず神の恵みが存在します。神は最初に「私は主、あなたの神」と語られました。神は「私・あなた」という二人称の関係の中にご自分と人間の関係を置きました。そこで、神は人間を第三者とせず、常に「あなた」と呼びます。当時、奴隷のような存在は人間ではなく、高等家畜として非人格的に扱われました。神の働きは人間をそのような非人格的状態から真の人間的状態へと導き出すところに現れました。そして神の働きがその後まさに戒めを通して貫かれました。真の人間として動物を含め全ての命を尊重し、守ること、真の人間として、人を抑圧するのではなく、安息を全ての人に与えること、真の人間として異国寄留者や社会的に弱い立場に置かれている人の権利を守り、愛することなど、神は律法を通してイスラエルの人々に教えたのです。旧約聖書では、神はエジプトでの奴隷状態からの解放者、バビロンでの捕囚状態からの解放者、新約聖書においては罪と死からからの解放者としてその救いの働きを完成させました。旧・新約聖書を貫く神は、常に人間を真の人間存在へと呼び覚まし、彼らを「罪」と「死」の淵(ふち)から救うために、全力を尽くす存在です。当然、旧約と新約、律法と恵みの時代を貫く神は、今私たちの時代にも生きておられるのだと私は信じています。

 私たちは今どんな時代に向かって生きているのでしょうか。経済やテクノロジー、人の行動様式の変化の中で時代の変化を感じる事が多いと思います。特に最近は第4次産業革命時代と言われ、AIRPAなどの技術革新の中で、インターネットとリアルの融合が進み、どんどん境界線が無くなる時代になっていると感じます。つい最近、日本が将来的に少子高齢化社会を迎えることを見込んで、外国人労働者受け入れの制度をはじめ、ロボット生産の取り組みなどがニュースの話題となりました。社会に役立てば、生産性があれば、人間も機械も同様に社会建設の材料として自由に使われていいのだという人間の身勝手な思いが前提にある発想のように見えています。ロボットの場合、人間の代わりにサービスを提供したり、恋愛したりすることができます。労働生産性や利便性の追求、技術革新と実用化は更に進むと思いますし、回避できない現実かと思います。そういった社会へ派遣された教会と私たち個人に神様はどんな意志を示そうとしておられるのでしょうか。

 広島教会にいた時に出会った中国人技能自習生のことを少し話したいと思います。私はある日スーパーで3人の中国人技能自習生と会いました。私は近くの教会で牧師をしている伝えたら、彼女たちは日曜日に教会の礼拝に来てくれました。その内の一人が中国にいた時に既にクリスチャンになったので、教会のことを誰よりも信頼していました。良く聞いたら、彼女たちは出稼ぎ労働者で、技能自習生として日本に来たことが分かりました。当時彼女たちは広島にある物流会社で働いていました。子どもたちの教育費や家庭のために外国で働いたら多く稼げると思い、日本に来たのでしょう。初めてお会いした時に、彼女たちの笑顔は本当に素敵でした。「日本はいい所ですね。頑張って日本で働きたい」といつも言っていました。その3人のお姉さんが、5月に日本に来て、7月から正式に工場で働き始めました。その後、3人は欠かさず毎週1時間以上自転車をこぎ、教会にきてくれました。しかし物流会社で働き始めた彼女たちの顔に笑顔が消え、いつも涙を流しながら礼拝しました。「どうしたの、何か辛いことが会ったの」と聞いたら、「毎日朝5時から、夜11時まで、働かせられている。」「その間の休憩時間は20分しか与えられない。20キロの物を一日中ずっと運び、走りながら働かなければならない。」「一日中トイレに行く時間さえない。朝食は朝4時、昼食は午後16時や17時にならなければ取ることができない」などを伺いました。私は留学生として日本に来てずっとアルバイトをしていました。お金を稼ぐために汗を流し、苦労することは当たり前のことだと思いましたが、しかし彼女たちのような苦労を私は経験したことがありませんでした。そんな状況を伺った私はどうしたらいいかが分からなく、広島教会の主任牧師播磨先生に聞きました。その後、先生は私と一緒に労働基準監督署に行って、技能自習生の労働状況を報告しました。私たちは組織そのものを変えることができませんが、少しでも、彼女たちの労働環境を変えたいという願いを持って行ったのです。その後、労働基準監督官が工場へ立入調査に行きました。その後、8人の自習生も一緒に教会に来て、一緒に労働基準監督署に行きたいと涙しながらお願いされました。労働の環境が時期によって少しずつ改善されましたが、問題が全て変えられたわけではありませんでした。途中で怪我して働けなくなり帰国する人もいれば、厳しい労働の環境に耐えられず諦めて帰る人もいました。その中の二人の女性だけが教会に通い続け、教会員の皆さんに助けられ、支えられながら、一年間信仰生活を送りました。そして帰国する前に、お二人が広島でバプテスマを受けて帰られました。お姉さんたちが日曜日に教会に来るたびに「ここに来ると、お家に帰ったかのように、本当に温かいな」と言いました。

 

4,律法の時代における人間の自由

 近年、労働力の不足に伴い、日本の外国人労働者数はたびたび過去最高を更新してきた。厚生労働省が最近発表したデータでは、201810月現在の外国人労働者数が2008年の約3倍に当たる146万人を超えたことが明らかになりました。日本政府はさらに外国人労働者の呼び込みを拡大すべく、今年4月に最長10年間働くことができる新たな外国人労働者の在留資格である『特定技能』を新設する予定だそうです。その一方で、外国人労働者を取り巻く劣悪な労働環境、低賃金、混乱する雇用状況は改善されていません。日本の野党が失踪した外国人技能実習生2870人を調査したところ、最低賃金未満で働かされていたのは7割近くに達し、過労死ラインとされる月80時間以上の残業をしていたのは292人に達したと伝えられています。実習制度の闇の部分を明らかにしなければ、再発防止措置の取りようがないと言われています。

 パウロは教会の人々に向って、「信仰は律法を確立する」と述べられました。律法の時代にあったイスラエルは恵みの契約を受け、値なしの救いによって救われました。イエス御自身も「私は律法を廃棄するために来たのではなく、律法を完成させるために来た」とおっしゃいました。イエスキリストがご自分の言動によって律法を正しく解釈し、愛を実践されました。このイエスキリストが、どんな時代おいても、社会で圧迫され、死の鎖に人縛られた人々を解放し、自由を与えてくださることを信じています。信仰と自由を与えられている私たちは、神の義と愛の律法に従って歩んでいきましょう。

(劉雯竹)