キリスト教の聖典は旧約聖書と新約聖書という二つの部分から構成されています。旧約聖書と言えば、天地創造、失楽園、ノアの箱船、バベルの塔、などのエピソードが紹介されていると同時に、有名な「十戒」をはじめ、様々の「律法」も記されています。この律法は、しばしば単なる「うるさい規律」または「冷たい規則」のように思われることがあるようです。イエス・キリストがこの世で生活しておられた時代も、律法をめぐる議論はイエスの伝道活動の一環となり、「安息日を巡っての論争」をはじめ、「断食問題を巡る論争」、「権威を巡る論争」などが展開されていきました。実は、これらの律法をめぐる議論はかなり複雑な問題を抱えているので、問題の所在を調べ、律法の本質と意味を考えたいと思います。そもそも、旧約聖書の律法は昔のユダヤ人をはじめ、今日の我々にどのような意味をもたらしているのでしょうか。
旧約聖書は「モーセ五書」、「歴史書」、「知恵書」、「預言書」という四つの部分があります。その中の「五書」は、「律法」(トーラー)と呼ばれます。内容は天地創造に始まり、モーセの死に及ぶ歴史の枠組みの中に、モーセによって与えられた多くの律法を含んでいます。もっとも、律法については、安息日の律法は天地創造の完了と共に定められたとされ(創2:1-3)、ノアに与えられた血に関する律法もあれば(創9:1-7)、アブラハムに与えられた「割礼」の律法もあります(創17)。ただし、これらの「律法」(トーラー)は、狭い意味での個々の律法を指すよりは、むしろ神の意志を直接に啓示するものとしての「律法」を意味しています。天地創造からモーセの死に至る歴史は、アブラハムに対する約束、モーセによる出エジプトとシナイの契約など、いずれも神の救いの働きを示す啓示の出来事であって、広い意味での「律法」です。
現代では、「律法」というものが言及される時に、人間の自由を奪い、縛るものとして捉えられがちですが、聖書の神は、律法によって人間を縛るのではなく、真の人間性を回復し、救いと自由を与えられたのです。そもそも、「律法を守ること」に固執するのではなく、なぜ律法を守るのかという本質的な問いに目を向けつつ、誰にも奪われない喜びと自由を律法によって見出していただければと思う次第です。(劉 雯竹)