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2019.2.17 「イエス・キリストを信じる決断」(全文)  マタイによる福音書9:18-26

1:  神と人間との隔たり

 今日の話では、イエス様と二人の人物が登場します。一人は「指導者とされる人物」と、もう一人は「12年間出血を患っている女性」です。この話は、この二人とイエス様を中心とした話となりますが、今日は、その二人について見る前に、まず23節から登場する群衆の姿から、見ていきたいと思います。24節で、イエス様は少女のことを「眠っているのだ」と言いました。そして群衆はそのイエス様をあざ笑ったのでした。この群衆は「笛を吹き、騒いでいた」のです。これは少女が死んだなかで、別にふざけていたのではないのです。この「笛を吹き、騒いでいた」のは当時の葬りの習慣でした。当時は、どんなに貧しい者でも、葬儀の時には「ふたりの笛吹きと一人の泣き女」をお願いする習慣だったのです。つまり人々が「笛を吹き、騒いでいた」のは、少女が死んだため、すでに葬りの準備を始めていたということなのです。

 そこに、イエス様がやってきて、「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」(24)と言ってきたのです。このような言葉は、人間の常識からすれば、その場を受け入れていない言葉であり、そのような人をあざ笑うことのほうが、当然の出来事だと思うのです。

 しかし、これがイエス様によって語られた神様の言葉、神様の常識の御言葉なのです。ここから神様と、人間との間には大きな隔たりがあることを知るのです。確かに神としてのイエス様からすれば、この少女は「眠っている」だけだと言うことができたでしょう。それは、このあと甦るとか、甦らないということではなく、この少女は死によって、神様の前に召されたのです。つまり、この少女は、終わりの時がくるまで、神の御許において、眠っているだけだと理解することが出来るのでしょう。ただ、はっきり言って、この「死」が「眠っている」という感覚は、人間には受け入れがたい事柄です。このようなことからも、神様と人間の大きな隔たりを感じるのです。私たちが生きている、この私たちの世界における常識と、神様の常識には大きな隔たりがあるのです。

 聖書では、詩編においてこのような言葉があります。【139:1主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。】【139:7 どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。】(詩編139:1、7-8)

 

 神様は、この世界を創り、私たち一人一人に命を与え、養い、そのすべてを知り、そのすべてを見ておられるのです。そのような方の常識を、私たちの常識で理解することができるわけがないのです。私たちは、まず、この創造主である神様と被造物である私たちには、大きな隔たりがあることを認識する必要があるのです。

 

2:  二人が気づいたこと

 そのうえで、今日の箇所に登場する、二人の人、「指導者とされる人物」と、もう一人の「12年間出血を患っている女性」について見ていきたいと思います。この二人は、自分の常識を超えて働かれる神様のもとへ飛び込んだのでした。この二人が神様に飛び込む決心をしたのには、一つの気づきがあったのです。それは、人間には限界があるということを、知ったということです。

 ここで指導者とされる人物は、別の並行箇所ではヤイロという名前で、会堂長であったとされるのです。この人は、ファリサイ派や律法学者のような、いわゆるプロの宗教家ということではなく、みんなのまとめ役で、リーダーのような存在でした。社会のリーダーであれば、もちろん資産もあれば、教養もあったでしょうし、権威を持ち、名誉を受ける立場でもあったでしょう。そのような意味で、ある程度は欲しいと思っていたものは、手に入れることができたでしょう。しかし、この指導者は、どうしても自分の力ではどうすることができないことに、出会ったのです。それが娘の死でした。権威を持ち、財産もあった。欲しい物は手に入れることはできたはず・・・でしたが、娘の「命」はどうすることもできなかったのです。そこで、自分ではどうすることも出来ないこと、人間にはどうすることもできない限界があることに気が付いたのでしょう。このとき、自分の娘が死んだことは大きなショックだったでしょう。最近、親が子どもを虐待して、殺害したというニュースがありましたが、本来、親は子どもの命を守るためには、自分の命と引き換えにでも、自分は何をしてでも・・・守り、助けようとするものだと思うのです。この指導者は、娘の死を目の前にして、自分が食べることよりも、寝ることよりも、どうにか娘が生きる方法を考え、なんでもしてみたと思うのです。しかし、それでもどうすることも出来なかったのです。この時、この指導者は、自分にもできないことがあること。自分を超えた領域があることを知ったのでした。

 

 同様に、「12年間出血を患っている女性」もまた、この病との格闘の末に、自分にはどうすることも出来ないことがあることを知ったのでしょう。この血が止まらないということは、もちろん肉体的な苦しさもあったでしょうが、このような病にある者をユダヤでは「汚れている者」としていたのでした。そのため、ユダヤの社会では、この女性は「汚れた者」「触れることも、近寄ることもできない」存在とされたのです。マルコによる福音書ではこの女性について、【5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。】と、このように記されているのです。この女性は全財産を使い果たして、多くの医者にかかったのでした。病が癒されるため、社会の一員として認められるため、みんなと一緒に生きるため、そのために考えられるあらゆることをしたのでしょう。しかし、だれもこの病を癒すことはできなかったのでした。 

 私たちも病気になったら、まず病院に行くと思います。とりあえずどこかしら病院に行って、お医者さんに診てもらい、そして、そのお医者さんの言われたことを聞いて、出された薬を飲んで、病気を治していくのだと思います。しかし、医者も人間ですから、もちろんわからないこと、間違えることもあるのです。少し前ですが、私が肺炎になったときには、最初に行った病気では、「ただの風邪」だとされ、薬も出されたのですが、なかなか治らないので、別の病院に行ったら「肺炎」だとわかったのです。私の知り合いのお医者さんは、病気の原因、理由がわからない場合でも医者は「わからない」とは言えないから・・・現代は、その時はとりあえず「ストレスでしょうか・・・」と言っておくと言っていました。誰でも人間が生きていれば少しは「ストレス」を感じて生きているでしょう。そのような意味で、よくわからないときは、「ストレスのためかもしれませんね」と、そのように言っておくということでした。最近はセカンドオピニオンという考えも広がり、お医者さんが言うことが絶対だと思わない人も増えてきましたが、確かにお医者さんも人間ですし、限界があるのです。この女性は、そのことを痛感し、人間が信じていることのもろさや、人間の知恵や知識の限界を知ったのでしょう。このように、この二人は、人間には限界があることに気付かされた。人間には超えられない領域があることを知ったのです。

 

3:  打ち砕かれた隔たり

 この人間の限界性に気が付いた二人は、自分の価値観、自分の理解を超えた領域にある方を求め、そこに飛び込んだのです。ここに二人の人間がイエス・キリストに飛び込んだ、いわゆる「信仰」とされる思いがあるのです。イエス様はこの二人の決心、決断を受け止められたのです。この指導者の言葉を受けたイエス様は、何も言わずに、立ち上がりその人の娘のところに向かったのでした。そしてまた、女性がイエス様の房に触れたとき、イエス様は振り向き、彼女を見て、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(22)と言われたのです。二人が得たのは、もちろん、娘の甦りによる喜び、病が癒された恵みもあったと思います。ただ、それ以上に、自分たちの限界を超えた方、それは人間の命を造り、今も養い、守っていてくださる方との出会いです。それはつまり、自分たちの限界を超えた方と出会い、繋げられたということです。

 

 そして、このつながりは、イエス・キリストの御業によるのです。イエス様は「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(22)と言われました。ただ、本当に、この女性を救ったのはイエス・キリストによるもので、そのイエス・キリストによる恵みを受け入れた「信仰」が、この女性を救ったのでした。また、このあとの少女の救いにおいても、イエス・キリストが少女の手を取って、そのイエス・キリストが差し出した手、その憐れみによって、少女は救い出されたのでした。このイエス・キリストの業、それは大きく隔てられていた、神様と人間の、その隔たりを超えた御業であったのです。このイエス・キリストの御業、神様と人間を繋げる行為によって、二人は救い出されたのでした。

 

 最初に言いましたが、私たち人間と神様との間には大きな隔たりがあるのです。そしてその隔たりを打ち砕き、人間と神様との関係を繋げられた方、それがイエス・キリスト、私たちの救い主です。イエス・キリストは、神様と人間とを繋げるため、この世に来られたのです。イエス様はこの世界に人間として来られました。それはイエス・キリストご自身が、人間となり、人間の限界、人間の無力さの中で、この世に生きて下さったということです。神の御子イエス・キリストが人間となり、限界のある世界に来られたのでした。

 そのうえで、イエス・キリストは十字架という「死」に向かい、そして、十字架の上で死なれたイエス・キリストが、「死」を打ち破る、新しい命を受ける出来事、「復活」を受け取られたのです。 この「復活」とは、「死」を打ち破る出来事であり、私たち人間の「限界」を打ち破る出来事であり、それは、私たち人間が神様とつなげられる出来事です。復活とは私たちの理解を超えた出来事です。私たち人間の領域を超えた復活という出来事を通して、神様は、私たち人間との隔たりを超えて、私たちに手を差し伸べられたのです。ここに神様と人間の関係が新しくつなげられたのです。

 

4:  飛び込んだ二人が得たもの

 二人は、この死を越え、復活された、イエス・キリストに飛び込むことによって、命を創造し、今も支配されている神様とつなげられたのです。ここに二人が得たのは、もちろん死からの甦りや病からの癒しという喜びも得たでしょう。それ以上に、二人が得たのは、自分たちが生きる目的、これから生きていく道です。先ほども言いましたが、この指導者はある程度のもの、権威や財産も持っていたのです。また逆に、女性の方は、もはや何も持っていなかったと言ってよいでしょう。社会的にも蔑まれ、受け入れられない存在となっていたのです。このような意味では、二人はまったく別々の状態にありました。今で言えば、社会の勝ち組と負け組という立場にいたのです。しかし、それでもこの二人はこの世に生きる中で、ある意味同じ方向を向いて生きていたのです。それは、自己中心という方向です。人間の力、社会の力、世界の力だけを求めて生きるという方向です。それは、命の創り主、神様を忘れて、自分こそがその命も支配し、自分の力で生きているという方向であり。それは、自分は自分の力で生きて行かなければならないという、そのような「生きる道」です。「自分の力だけで生きていく・・・」この思いは、人間を自己中心的な思いにします。もちろん、自分で生きなければならないのですから、他者をけり落としてでも、力を持たなければならないと思うのが当然でしょう。

 この指導者、そして病の中にあった女性は、イエス・キリストを信じたのです。それは、イエス・キリストに飛び込む決断、それは、これまでの生き方からもう一つの生き方に生きるという決断なのです。そしてそのことによって、神様とつなげられ、命の創り主、世界の創造主、そして私たちを守り、養い、導いてくださる絶対者に出会ったのでした。

 二人が得たのは、この神様に委ねて生きるという生き方です。私たちが生きる上で、自分で努力して、頑張って生きること、自分で困難を乗り越えていくということももちろん大切です。神様からいただいた知恵と力とを十分に用いて生きることは、とても大切なことです。私たちは、そのうえで神様に委ねていきたいと思うのです。しかし、人間には限界がある。そのことを忘れてしまうと、時に、人を傷つけ、時に、自分が傷つき、生きることが苦しくなるのではないでしょうか。私たち人間には限界があるのです。どうすることもできない領域があるのです。以前、テレビで、人間がどうすることもできないことは、お金ではなく「時間」であると言っていました。そこではだからこそ時間を有効に、良く考えましょうという結論になっていましたが・・・確かに、私たちには「時間」を取り戻すことはできません。これも人間の力を越えた事柄です。ただ、だから「有効に」するだけではなく、どうすることもできない領域、つまり「時間」であり、そして「命」を支配されている方がおられることを覚えたいと思うのです。

 この今日の箇所に出てきました、指導者、また12年も病に苦しんだ女性は、どうすることもできない中で、人間の限界を知り、最後にイエス・キリストに飛び込んだのです。イエス・キリストを信じる決断したのでした。私たちも、どうすることもできない時、八方ふさがりで、もはや生きる希望もないと思う時に、そのような私たちの思いを超えて働かれる方、神様を信じて、イエス・キリストのもとに飛び込んでいきましょう。そこに必ず新しい命の光が与えられるでしょう。信じて、すべてを神様に委ねて、生きていきたいと思います。(笠井元)