1.ファリサイ派の人に招かれるイエス
物語は、あるファリサイ派の人から、一緒に食事をしたいと主イエスにお招きがあったことから始まります。イエス様とファリサイ人との間には結構、葛藤がありましたが、主イエスはその招きに応じました。
2.一人の罪の女
「そして、見よ、ひとりの女が」と言う言葉で始まり、その女性がこの町で、「罪びと」と公然と認められていたと紹介されています。この呼ばれ方で、彼女の孤独、この世に生きる辛さ、あるいは何か自堕落な生活の仕方が語られています。
3.2つの対比
この物語には2つの対比。第一は、民の指導者であるファリサイ派の人と同じ指導者としてのイエス様との対比、第二の対比は、罪びととは距離を保つべきだと考えるファリサイ派と罪びとを招き、受け入れる主イエスとの対比です。しかし、この女性の登場によって、見えていなかった問題が見えるようになりました。シモンと罪の女との対比です。
4.シモンと罪の女との対比
ルカの福音書の叙述によると、当時、ゲストを招いた場合、使用人が足を洗い、そこに主人が来て、接吻の挨拶をし、頭にオリブ油あるいは香油を垂らすのが習わしであったようです。この女性はイエスの後ろからそっと近づき、自ら僕の働きをして、盥の水の代わりに、自分の涙でイエスの足をぬらし、私たちと同じ大地を歩いて下さり、汚れてしまうイエスの足に接吻し、足に香油を注いだのです。そうすることによって、実は、シモンがそのような行動を一切しなかった事実が浮かび上がってしまいます。
5.多く赦された者が、多く愛する
主は一つの例話をします。(41~43)500デナリオンの借金を帳消しにされた人と50デナリオン帳消しにされた人はどちらが金貸しを愛するであろうかというのです。人の愛の動機として、神に対してどれほど負債感を感じているかが問題なのだというのです。
6.罪・負債の自覚と自分を捧げる生き方 あるキリスト者の生き方から
7.結語
他人の問題点は目につくが、自分の問題には気づかないものです。今朝は、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉を受け取りましょう。
明日は、2011年の3月11日の東日本大震災から8年を迎えます。また、先週の水曜日は「灰の水曜日」でして、私たちは「レント」(四旬節)を迎えています。主イエスの受難を覚え、震災の傷のいまだ癒えない人たちがおられること、そして、私たちの群れの中にも病の床に臥せっておられる人がおられることを覚えて、新しい週を過ごしましょう。(松見俊)