1: 悔い改め
今日の箇所において、イエス様は【わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。】(10:16)と言われました。マタイによる福音書が記された時代、キリスト者は大きな迫害の中にありました。ユダヤの人々は、ローマ帝国に支配されているなかでローマ皇帝からの迫害を受けていました。それと同時に、キリスト者はユダヤの人々からの迫害も受けていたのです。今日の17節において【あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。】とありますが、この「会堂で鞭打たれる」とは、つまりユダヤ教の会堂における迫害を示している言葉でもあります。マタイの時代、教会はそのような二重の迫害、弾圧を受けていました。それはまさに「狼の中に送り込まれた羊」のような姿であったのです。
まず、私たちは、今、私たちが受け取っている神様の愛、福音はこのような迫害の中にあって、それでも信仰の先達者たちが、命をかけてつなげられてきたものだということを覚えたいと思います。それこそ、今日の説教題にあるように、「ただまっすぐに神様の道を歩き続けた」先達の方々の信仰によって、神様の愛はつなげられて、今ここに与えられているのです。イエス様がこの世に来られてからすでに2000年以上の時が過ぎていますが、この2000年の中で、キリスト者は何度も何度も厳しい迫害を受けてきました。 この迫害を受ける一つの理由は、福音の性質にあるということが出来るのです。
イエス様は福音の始めに「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)と宣べ伝えられたのです。「悔い改めよ!!」これが福音の大切な一つの性質です。福音とは「悔い改めること」を宣べ伝えるのです。悔い改めとは、今まで生きてきて、こられから生きていこうとしている、それぞれの自分の考え、自分の生き方について、一度立ち止まり、点検をして、間違っていれば、その生き方を変えていくことになります。つまり、今、生きている、生き方に疑問を投げかけられ、批判されている言葉ともなるのです。「あなたの生き方は間違っているのではないですか?」「その考えは本当に正しいのでしょうか」と言われて嬉しい人はいないでしょう。よく大人が子どもに「このようにしなさい」と伝えても、子どもからすれば「今、しようと思ったのに・・・何度もうるさいな」と思うことがあります。これは、自分の中には正しい考えがあるのに、それを無視して、「あなたの行動は間違っている」と自分を否定されているように聞こえるからでしょう。
「悔い改めなさい」。それは、自分の生き方を否定されているようにも受け取られる言葉です。ですので、人々が福音、悔い改めを拒否することは当然だと思うのです。特に、今、自分が生きている、その生き方に満足している人々、その生活を保ちたい人からすれば、悔い改めること、生き方を変えることなど、必要もなければ、とても迷惑な話です。福音は受け入れられず、邪魔なものとされ、そこに敵意が生まれるのは、ある意味当然のことかもしれません。キリストの福音を告げる者、キリスト者は社会から迫害を受けてきたのです。その一つの理由は福音が、社会に疑問を投げかけ、批判する言葉であったからでもあります。
そのような中、現代のキリスト者は、それほどの存在、社会において批判の言葉をなげかけ、迷惑で敵意を持たれるような存在となっているでしょうか。今の社会における私たちの存在の意味を考えさせられます。もちろん必ず迷惑な存在でなければならないわけではないでしょう。社会が神様の御心に沿っているのであれば、そこに「否」を言う必要はないのです。では、現代の社会は神様の御心に沿っていると言えるでしょうか。わたしたちが、神様に従い生きるということは、社会に喜ばれる道を示すのではなく、神様に喜ばれる道を歩くことなのです。
2: 和解
神様の道、福音の道は「悔い改め」であり、同時に「和解」の出来事でもあります。イエス様はこの箇所の前では、【10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。】とも言われています。福音は「悔い改め」であり、また「平和」です。「平和があるように」に向かうように悔い改めなさいと教えているのです。
現代社会は、どの国も「自分たちが一番」「自分たちがファースト」であることを、大々的に叫びます。つまり、自国の利益、自分たちのことだけを考え、自分を中心に、自分が一番、自分が幸せであれば、そのためには、他者を苦しめることなどお構いなしなのです。日本においても、東日本大震災であれだけの悲惨な出来事を目にして、今も苦しんでいる人がいるのもかかわらず、原子力発電の再稼働を始めています。これは、私たちも毎日使っている電気のことですから、私たち自身、自分の生活において、自分たちにとって過ごしやすい生活を求めて、それを手放すことができないでいる結果であることも覚えていなければならないことでしょう。また、それこそ未来の社会、未来の人々のことを考えることなく、「今の」自分のためだけ、自分の利益だけを考えている姿ともいうことができます。先日、父親が自らの子どもに暴力をふるい、命を奪うという痛ましい事件も起きました。また福岡の東区、私たちが生きているすぐそこの保育園で虐待がなされていたのです。これが私たちの生きる現代社会の姿です。
福音は「互いに愛し合うこと」「平和」を求めます。しかし、この世は「自分の利益だけ」「争い」を求めているのです。まさに「狼」のように人を食い尽くしてでも自分が裕福になることを望む、そのような社会こそが、人間の作りだしている現代社会なのです。今、この中にあって、私たちはきちんと神様の福音を宣べ伝えているのでしょうか。私たちもまた、自分の利益を考え、人々に嫌われないように、その範囲でだけの福音を宣べ伝えてしまっていることはないでしょうか。 それだけではなく、むしろ私たち自身が、「狼」となってしまっていないでしょうか。
私たちは今、この社会において、福音という「悔い改め」の言葉、そして「平和」という言葉をきちんと宣べ伝えていきたいと思います。社会が神様の御心に沿ったものとなっているかを点検し、間違っていれば「悔い改める」ことを示し、「平和」を求める道を訴え続けていきたいと思うのです。
3: 慰めと励まし
イエス様は、福音を宣べ伝えるために生きる者を励まされています。【10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。】 イエス様は私たちに聖霊を送って下さいます。私たちは聖霊によって励まされ、福音を宣べ伝えていくのです。福音を宣べ伝えることは、「狼の中に入れられる羊」のような出来事です。無防備で、完全武装の人たちのなかに入っていくようなことなのです。そのような私たちに与えられているのは、武装すること、暴力ではなく「愛」です。神様は私たちに、神様とイエス様を繋ぎ、神様と私たちを繋ぎ、人間と人間を繋ぐ方、聖霊を送ってくださっているのです。悔い改めることは、聖霊による、神様の愛を受け入れることです。私たちを慰め、励ましてくださっている、イエス様の愛を受けて、信頼して歩き出すことが、福音の道を歩き出す第一歩なのです。
4: 知恵をもってただまっすぐに
最後に【蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。】という言葉から学んでいきたいと思います。蛇のように賢くなる。蛇は賢い者としての象徴的存在でもあります。賢いこと、知恵をもつことは大切なことです。23節では【10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。】とも言われています。イエス様は「逃げること」の大切さを教えています。逃げることは、一つの知恵です。同時に逃げることは自分のプライド、自分の正しさを一度手放して、立ち止まり、別の道に行くことでもあります。それは「悔い改め」にもつながります。逃げ出すことが最善の道だと見出すこと。そのためには知恵、賢さが必要でしょう。迫害を受け、人々に嫌われ、最終的に殉教する。それが神様の福音の中心部分ではありません。福音を伝えることは、神様の愛、和解、平和を伝えることであり、そのために悔い改める必要を伝えるのです。 そのためには逃げることも必要なのです。自分の無用なプライドに囚われること、必要のない摩擦に陥ることから逃げ出し、新しく福音を宣べ伝える道を歩き出すことは、神様から与えられた知恵です。私たちは神様を見上げていく知恵をきちんと用いる必要があるのです。
そして【鳩のように素直に】なること、この、素直さとはただ「言いなり」であることではなく、「まっすぐ」であることを示すのです。「鳩のような素直さ」それは、ただ神様にまっすぐに生きることを教えているのです。私たちは、なによりもただ神様にまっすぐに生きましょう。神様の愛を求めて生きればよいのです。
それがどのような時でも、鳩のように、素直に、まっすぐに神様に目を向けて歩くこと、これが私たちの生きる道、福音の道です。神様は、私たちが苦しい時にも、私たちと共に苦しんでくださり、八方ふさがりだと思っていても、逃げ出す道を備えてくださり、必ず新しく生きる道を開いてくださるのです。神様にまっすぐに生きる時、そこには必ず希望があります。この希望は無くなることはありません。私たちはただ神様に信頼して、ただまっすぐに、その愛と平和を宣べ伝えていきたいと思うのです。そこに、神様は必ず知恵と聖霊を送って下さいます。私たちがするべきことは、その聖霊による神様の愛を素直に受け入れること、そしてその喜びを素直に言葉にしていくことです。
私たちはこの新しい年度の時、この世界において「悔い改めよ。神の国は近づいた」そして「平和を実現していこう」と叫んで生きていく者として、もう一度歩くべき道を確認していきたいと思います。(笠井元)