1.身近にある死と、その現実に振り回される自分
私たちは人間である限り、必ず誰かに支えられ、また誰かを支えて生きています。赤ちゃんの時からは支えられることを経験し、学べば、大人となっていくうちに、今度は自分が支える側になりたいという想いと責任を持つようになるでしょう。皆さんは誰に支えられて生きてきたのでしょうか。家族、友人、学校の先生、会社の同僚など、私たちを支える人は実は一人ではなく、多く存在します。ただし、多くの人が自分を支える中、その中に必ず一人か二人ぐらいが、私たちにとっては特別な存在であり、また大切な存在であると思います。私の場合は、その大切な存在は私の祖父母でした。幼い頃から、両親は仕事が忙しく、平日には家にいないため、私は、ずっと祖父母の家で暮らしていました。祖父も祖母も私のことが大好きで、一緒に遊んだり、美味しい食事を作ったりして楽しい毎日を過ごしました。わがままな子どもでしたが、いつも厳しく叱ってくる両親とは違って、祖父と祖母がその私に対して怒ったことが一度もありませんでした。幼い頃、「ぶんちゃんのお家はどこだ」とわざと聞く近所の人たちに、「お爺ちゃんとお婆ちゃんの家だ」と答えたり、「じゃ、一番好きな人は?」という質問に「お爺ちゃんとお婆ちゃんだ」と答えたりしていました。そして自分の中で「お爺ちゃんとお婆ちゃんをもっと幸せにしてあげたい」という願いを持つようになりました。私は田舎の祖父母の家で実際に15年間生活し、16歳の時に汽車で6時間かかる遠い町にある学校に行きました。初めて夏休みの時、私は田舎では買えない美味しいお菓子やおしゃれな洋服を都会のスーパで買って、祖父と祖母にプレゼントしました。お二人は嬉しくて、微笑みながら「ぶんちゃんがお爺ちゃんとお婆ちゃんの所にちゃんと帰ってくる、それだけで十分だよ」と言ってくれたのは今も覚えています。そのお爺ちゃんは、私が学校に戻ってから半年後に、心筋梗塞で亡くなり、お婆ちゃんは三年前の今日亡くなりました。今、たとえ私が家に帰っても、そこにはお爺ちゃんとお婆ちゃんがいない。この寂しい、悲しい現実と十何年も戦ってきました。またこの現実より、最も耐えられなかったのは、お爺ちゃんとお婆ちゃんの最後を看取り、彼らの死の場面に間に合えなかったことです。それどころか、葬儀にも参加できませんでした。なぜそうなったか。それは誰も知らせてくれなかったからです。お爺さんの場合、両親が私の学校での勉強を心配し、その死も、後の葬儀も知らせてくれませんでした。お婆ちゃんの場合、私が牧師招聘を受けて、お見合い説教のために、シンガポールを発ち、広島に着いた日の朝の時間に亡くなりました。教会の奉仕に集中してほしいと願った両親は、何も知らせてくれませんでした。結局祖父と祖母のために、私は何もできませんでした。お二人に会いたくて実家に帰って行きましたが、いきなり知らされたのは二人の死でした。「どうしてですか。なぜ知らせてくれなかったのか」と長い間、心の中で両親や周りの人を責め続けてきました。確かにそのおかげで、学校での勉強も、牧師招聘のことも、全てうまくいきましたが、しかしそんな自己中心に育てられた自分は本当に良い牧師になれるのかと疑問を持ちつつ、広島教会に赴任しました。その広島教会で、私は二人の教会員の死を経験しました。一人は男性の方で、膵臓癌末期で亡くなられました。もう一人は、女性の方で、年を取り自然に老衰で亡くなられました。身近にある「死」というものをあまり認識できていない若者の牧師が、その二人の前に立たされ、祈るようにと頼まれたのです。その時点まで、私は、「死」というものを遠い存在として見ていました。身寄りが亡くなって初めて少しだけ感じますが、しかし「死」というものを感じる機会があまりにも無さすぎて、いきなりその場面に立たされた自分は、何をすれば良いかが分からなく、とにかく目を閉じて一生懸命祈りの言葉を考えました。牧師である私は、教会で二人の方と出会い、信仰によって互いに繋がっていると信じていましたが、しかしそれなしで考えれば、私は彼らとはまったく関係がない人です。彼らはどんな人生を送り、どのような思いで死を迎えたのか、そのことについて私は全く知りませんでした。彼らのことを少し知ることができたのは、お見舞いの時と葬儀の時でした。そして、その時に私は色んなことついて真剣に問うようになりました。「死ぬ」って一体どういうことか、人間は、生きている以上、死というのは避けられない現実があるなら、死んでいく人間として生きていく上でいちばん大切なものはなんだろうか、人間の究極の目的はなのか、死に対して全く無力な人間は希望を持って生きることができるだろうかと様々な問いが生まれました。
2.無力な死と貴い生
その時に手にして読んだ本は『キリスト教における死と葬儀』という本でした。キリスト者にとって、死ぬということはどういうことか。その本の推薦の言葉として、こんな一節が書かれていました。「十字架の無力な死を通して導き出された貴い生の本質こそ、 多くの悲劇を前に無力な我々への、清廉な力づけとなろう」と。著者は良く無力さに触れて語ります。「十字架というのは無力の極み」であることを伝え、無力さの中でこそ神とのつながりが見いだされるという言葉が印象に残ります。十字架の無力な死、それはイエス様の死ではないでしょうか。そのイエス様は一体どんな苦難を経験し、どんな最後を歩まれたのでしょうか。私は「イエスキリストの救いを信じる」と告白する信仰者であるのに、今まで、「十字架」、「受難」、「キリストの死」、「救い」などの言葉を軽々しく口にしてきたのではないだろうかと初めて気付かされました。確かに、私はそこにいませんでした。イエスキリストが十字架を担ぎ、血を流しながら道を歩いた場面を直接に自分の目で見たことがありませんでした。当時、イエス様は一体何かを語り、何を経験されたのでしょうか。それを近くで聞き、見る人がいました。彼はクレネ人シモンという人です。
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)とありますが、キレネというのは、現在のリビアに属する町で、昔はユダヤ人がもっと多く住んだ町として知られていました。彼がそのようなユダヤ人のひとりで、おそらく過越しの祭りを祝うために、はるばるとエルサレムに巡礼にやってきていたと想像します。彼はこの巡礼の旅をずっと前からも楽しみにしていました。荷物を準備し、遠くからエルサレムにやってきた彼が、十字架を背負って処刑場に引かれていくイエス様に巡り合いました。鞭で打たれ、衰弱しておられたイエスは、足取りは重く、何度も倒れこんでしまいました。その時です。「おい、この死刑囚イエスってヤツの十字架をお前が背負ってやれ」という兵士の命令を聞き、無理矢理にイエス様の十字架を背負わされて、一緒に歩かされてしまいました。死刑囚と一緒に歩くの。何と恥ずかしいことだ。彼の十字架を背負うっていうのは、俺まで彼と同じように不幸になるってわけじゃないよな?不吉な予感がする出来事だ!早く知ってたら、この場所に来ないはずだったのにと、彼は心の中で不満を呟き、いろんな思いを抱きながら十字架を背負って歩いたに違いありません。すると彼は近くに泣いている婦人たちがいることに気づきました。犯罪人の親族かと思ったが、隣のイエスは彼女たちの方を振り向いてこんな話をされました。「エルサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』は一体どうなるのだろうか」と。このイエスは何を言っているのだ。わけが分からない言葉だ。でも、すごい神の裁きの匂いがする。その場にいた婦人たちは、イエスの十字架の死の証人です。婦人たちの嘆きは自然ですが、しかしユダヤにおいては、これは死刑囚に対しての宗教的な行事でもありました。ここではしかし、それだけでなく、イエスはエルサレムに対する神の裁きを予告され、この嘆きは預言者ゼカリヤの預言成就とも考えられます。旧約聖書ゼカリヤ書に12章10—14節までにある言葉です。「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。その日、大地が嘆く。氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。」とあります。本日の箇所では、イエス様は、エルサレムの婦人たちを代表として、エルサレムに対して改心への最後の勧告を発します。「自分と自分の子供たちのために泣け」は改心の勧告です。「〜という日がくる」というのは、エルサレムの滅亡の日を予告しています。その日に、子供を持つ母親の悲劇、民の嘆きがあると知らせています。その後の生の木と枯れた木のたとえは、多分、無罪であるイエスさえ、このような苦しみに遭うのだから、まして彼を死刑にして精神的に枯れ死んだエルサレムには、神の裁きはどれほど厳しいものだろうか、という意味でしょう。そこで、キレネ人シモンは初めて気づきます。隣にいるイエスという人はただの死刑囚ではなく、実際のところ、無罪であり、神の裁きを伝え、人々へ改心するようにと呼びかけ、導いてくださる方なんだということ。続いて、その後、イエスと一緒に死刑にされる二人の犯罪人が引かれて行ったのを見ました。一人は十字架につけられたイエスの右に一人は左に十字架につけた。そこでイエスは大声で叫びます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と。その言葉を無視した人がたくさんいました。民衆はただ立ってその様子を見つめていた。議員たちは、あざ笑って「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うが良い」と言った。兵士たちは、イエスに酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱し「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言った。そして、十字架につけられた一人の犯人まで「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしった。権力と力が主張される世界です。その世界の中で、そればかりを求める人間の間で、イエスはひたすら沈黙しておられました。しかしその場に、もう一人の死刑囚がいたのです。彼はイエスに向かって「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください。」と願いました。その願いに対しイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と真摯に答えられました。
3.背負わされたのが、主の十字架
これら全てを目にし、耳にしたキレネ人シモンは、今自分は背負わされたのが、一体だれの十字架なのかと考え込みました。今自分が背負っている十字架は、裁きの言葉を伝え、恵みを与えるメシア主の十字架ではないかと彼は気づきます。しかし目の前のメシアは、とても無力で、権力者のもとや自分を罵る人々のもとで、ひたすら沈黙しておられました。この人は、権力や力で、あるいは何らかの奇跡で誰かと戦おうとせず、ご自分のことを犠牲にして捧げ、死ぬことを覚悟し、更に祈りを持って、人間の罪を赦し、弱く無力な人と共に歩まれました。だから人間に、本当の救いと恵みを与えることができる人は、この方しかないのではないかと彼は思い至ったのです。このキレネ人シモンのことを、マルコによる福音書よりもう少し詳しく書かれています。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかった」とあります。アクレサンドロとルフォスとの父シモン、このような書き方を見ると、彼の息子たちは誰もがその名を知る教会のメンバーだったとも想像されます。あの二人の父親が、実はイエス様の十字架を負ったシモンなんだよと、という風に読み取ることができます。特にルフォスはローマ教会の信徒であったようで、その名前がパウロの手紙の中に登場してきます。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」「ルフォスの母は、わたしにとっても母なのです」と、パウロは親しみを込めて挨拶をしています。ルフォスの母ということは、シモンの妻であるでしょう。このような聖書の箇所から、シモンは後に主の弟子となり、しかも一家そろって回心し、教会の中心メンバーとしてよい働きしていたということが分かります。無理矢理十字架を背負わされた時には、「なんて運が悪いだ!」とシモンはそのように嘆いたに違いありません。しかし、それは、後で考えれば、救い主なるイエス様との出逢いという神の恵みの業と言わざるを得ないような出来事であったでしょう。
4.十字架の道
私たちはこの世で生きている間、いろんな場面に立たされています。そこで苦しみを経験することもあれば、様々な葛藤や問い抱える時もあります。「なぜ自分はこんなに弱くていつも失敗するのか」「なぜ世界に死と苦難があるのか」、「なぜ理不尽なことが起きるのか」、「なぜ不条理な世の中で生きていかなければならいないのか」とそう思わされる場面があります。私たち人間はこれらのことや死に対して、全く無力な存在です。しかし、同じ無力さを抱えて歩まれるイエス様がおられ、私たち一人一人を招いておられるのですから、私たちもまた十字架の無力な死を通して導き出され、与えられた貴い生にすがり、希望を持って歩んで参りましょう。(劉雯竹)