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2019.4.21 「復活の主イエスに出会う」(全文)  使徒言行録9:1-9

 皆さん、イースターおめでとうございます。イースターはイエス・キリストの復活を覚えて、お祝いする時です。イエス様は、私たち人間の為に、この世に来られ、社会から差別されている人々、罪人とされている人々、苦しみの中にある人々を招かれ、共に生き、共に苦しみの中に生きてくださいました。イエス様は、すべての人間を愛してくださいました。そしてその愛は十字架の上で死なれることによって表されたのです。「十字架」が、私たちと共に生きる神様の愛を表されたとするならば・・・「復活」は、私たちに新しく生きる命を与えてくださった出来事ということができるでしょう。イエス様は、ただ苦しみの中にある者と共に生きるだけではなく、そこに新しく生きる道を開かれたのです。神様は新しい命を創造されたのです。これは死において闇に葬られた者が、もう一度、新しく光に照らされて生きる、新しい命を造りだされたということです。イエス・キリストは、復活されました。神様は闇に光を、絶望に希望を、争いに平和を、憎しみに愛を創造されたのです。これがイエス・キリストの復活です。この復活の出来事を覚えるイースターのときに、私たちは、私たち自身が、イエス・キリストの復活、新しい命をいただき、新しく変えられていきたいと思います。

 今日は、新しい命をいただき、歩き出した一人の人、「パウロ」の回心の出来事から、新しい命をいただくこと、そして、新しい命に生きることを学びたいと思います。

 

1:  パウロ

 まず、少しパウロという人間の紹介をしたいと思います。今日の箇所4節では「サウル」9節では「サウロ」と呼ばれています。この「サウロ」という呼び方は、当時のユダヤの人々が使っていたヘブライ語による呼び方であり、「サウロ」をギリシア語にしたのが「パウロ」となります。パウロは、生まれながらにしてローマの市民権を持ち、高名なユダヤ教の先生ガマリエルの弟子として学びました。つまり、ある程度の地位と知恵を持っていた人物だったのです。また、パウロは熱心なユダヤ教徒でもありました。そのために、そのユダヤ教から離れていくキリスト教徒を許せなかったのです。パウロはキリスト教徒を迫害、弾圧したのです。今日の箇所と同じ使徒言行録の7、8章において、ステファノというイエス・キリストを信じる人物がユダヤの人々によって殺害されていく場面があります。そのなかで、8:1では「サウロはステファノの殺害に賛成していた」と言われているのです。また、8:3では「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。」とも記されているのです。このように、パウロはもともとキリスト教徒を弾圧し、迫害し、そして殺害までしていった人間だったのです。

 また、もう少し説明しますと、このパウロはイエス様に出会ったあと、いくつもの教会を作り、そして多くの教会宛ての手紙も書いたのです。現在の聖書の、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙1・2、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙1、フィレモンへの手紙などは、パウロが記したものだといわれているのです。また、パウロは異邦人に向けての伝道を始めた人物でもあります。パウロは、イエス・キリストによる愛の出来事は、ユダヤの人々に留まるものではなく、異邦人、私たちをも含むすべての人間に与えられているということを宣べ伝えていったのでもありました。

 パウロはもともとは教会を弾圧する側にいました。しかしそのパウロが復活のイエス・キリストに出会うことによって、180度生きる道を変えられ、イエス・キリストを主と告白し、宣べ伝えていく者とされていったのでした。

 

2:  パウロの回心

 今日の箇所は小見出しにあるように「パウロの回心」の場面です。なぜパウロは回心したのでしょうか。パウロの回心については様々な考え方があります。一つには、当時のパウロの心の中には、律法を守ることによる限界を感じていた、またはユダヤ教を守るために迫害をすることに疑問を持っていた、どこかに迷いが生まれていたのではないかと言われます。今日の箇所4節において「地に倒れ」たのは、そのような自分の思いがぼろぼろになり崩れていっていたことを表すともいわれます。これまでの自分の考えてきた正しさが崩壊してしまったということです。そのような中でイエス・キリストを必要としていったとするのです。この考え方も一つの考え方として、よいものだと思います。ただ、この考え方はパウロの内的な心の変化を中心にしていて、ある意味とても人間の心を主体とした考え方だと思うのです。

 それに対して、今日の箇所をよく読みますと、3節からこのように記されています。【9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。】(9:3-4)この言葉から見ることができるのは、パウロを照らす光、そして呼び出す声という、明らかに外からの働きがあるのです。

 パウロの回心。この回心のとき、パウロにいったい何があったのか。そのパウロの心の奥底まではわかりませんが・・・明らかに、そこにはパウロを打ち倒す光があり、「イエス様の言葉」があったのです。パウロの回心は、そのパウロ自身の心の問題だけではなく、神様の招き、そして呼びかけのうちに起こされていった出来事であると見ることができるのです。

 7節では【9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。】とあります。この時、一緒にいた人たちも、このイエス様の声を聞いていました。しかし、その姿を見ることはできなかったのでした。つまり、このときパウロと一緒にいた人は、イエス・キリストの声を聞きながらも、イエス・キリストに出会うことはなかったということです。神様の招きは、何か一つの同じ出来事が起こることによって、すべての人間に、与えられるものではないのです。同じ聖書の言葉を読んでも、そこからイエス・キリストを感じる人もいれば、そうでない人、そうでない時があるのです。それは、わたしたちにとって、自分が神様に出会った御言葉が、すべての人間にとって同じだけの救いを与える言葉となるのではないということです。神様は、私たち人間に、必要な時に必要な御言葉、必要な出来事を示して下さるのです。

 パウロは、確かに、このときイエス・キリストに出会い、イエス・キリストの呼びかけを聞き、招きを受けたのでした。パウロは復活のイエス・キリストに出会ったのです。そしてこの出会いによって、パウロの心は変えられた。新しい命、新しい生き方をいただいたのです。

 今年は4月からバプテスマクラスを持っています。バプテスマを受けるための準備のクラスです。そこでも何度か同じことを言っていますが、「心が変えられること」、これは神様の御業であり、奇跡です。怒りと憎しみに燃えている者が、赦す者となるとき、自分のためだけに生きている者が、隣人に目を向け始めた時、神様の愛から心を閉ざしている者が、神様の愛を受け入れる時、それらはすべて神様の御業によるもの、奇跡の出来事です。

 

3:  パウロが受け取ったもの

 パウロはイエス様の言葉に応答していきました。ただ。このパウロが受け取ったものは「目を開けたが、何も見えない」ということで、「目が見えず、食べも飲みもしなかった」という現実でした。パウロは何も見ることができなくなったのです。無力になったのです。パウロはこれまでローマの市民としての地位を持ち、ユダヤの有名な先生ガマリエルの弟子として知恵も持っていました。パウロは自分に自信をもって生きていたことでしょう。キリスト者を傷つけるほどの迫害していたのですから、自分の考えている事は正しく間違っていることなどないと思っていたとも思うのです。

 そのようなパウロがここで、イエス・キリストに応答することによって、無力な者とされたのでした。イエス・キリストに向き合う時に、何か素敵な力や財産を得たのではなく、「何も見えない者」無力な者とされたのです。イエス・キリストに出会うパウロは、人々に手を引いてもらい、ダマスコまで連れて行ってもらったのです。自分ひとりでは歩けなくなってしまったのです。私たちがイエス・キリストに出会うこと、信仰を持つということは、このパウロのように、自分の無力さを認めるところから始まるのではないでしょうか。よく言われるのは、「宗教を信じる人は、自分自身の力では生きることができない人、弱い人が、宗教に頼るのだ」と言われることがあります。「自分には力がある。自分で生きていくことはできる。自分は人に頼ることはしたくない。神様に頼る人は弱い人だ。自分はそんなに弱い者ではない。」ということでしょう。私自身、良い説教を作るため、よい牧師になるため、良い園長になるため、自分でがんばろうと思います。それは悪い事ではないと思いますが、その思いが心の中を支配してしまう時に、「神様に頼る」ことを忘れてしまうことがあります。「神様を信頼すること」、「自分の力には限界があること」を忘れてしまうのです。私たちが信仰に導かれるということは、人間には限界があるということ、そしてその人間を愛して、命をかけて支えてくださる、信頼すべき方、イエス・キリストがいてくださること、このことから信仰が始まるのです。

 

 このあと、神様によって導かれたアナニアという者がパウロのために手を置いて、「祈る」ことによってパウロの目が開かれていくのです。ここに現れるアナニアはこの箇所以外には登場しません。アナニアは、有名で力強く福音を語った者として登場するのではなく、このパウロの回心のためだけに登場するのです。パウロは、この一緒に歩いていた人たちに手を引いてもらい、そしてアナニアの信仰、その祈りによって、回心に導かれたのです。パウロがイエス・キリストを自らの主として、回心し、新しい命を得て、新しい生き方を受け取った出来事は、パウロが自らの弱さを認めたところから始まったのです。パウロはⅡコリント12:9ではこのようにも言っています。【12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。】

 パウロは自らの弱さの中にこそ、神様の恵みが表されると告白するのです。これがイエス・キリストに出会い、パウロに与えられた新しい命、新しい道です。神様にすべてを委ね、信頼すること、そして、隣人に頼ること、自分は助けられなければ生きることができないことを、認めたのです。

 私たちは自分ひとりで生きることができる者ではありません。自分ひとりで生まれた人もいなければ、大人になっても、誰かに助けられて、また助け合い、支え合って生きているのです。自分は隣の人に支えられているということは、赤ちゃんや幼稚園生など、自分に力がなければないほど、素直に信じることができます。そして大人になり、知恵、力を持てば持つほど、頑固に受け入れない者となってしまうことが多いのです。まず、わたしたちは、自分が完全な者ではないことを受け入れましょう。そして、わたしたちは、自分の弱さを感じるときに、イエス・キリストの復活の出来事を覚えて、自分の不完全さを、悲しみ苦しむのではなく、喜びましょう。隣人に助けてもらいましょう。それが他者にとって迷惑なことだとしても、私たちはお互いに迷惑をかけあって生きるのです。時に助けられ、迷惑をかけ、そして時に助けて、迷惑を受け止め、一緒に生きていくのです。これがイエス・キリストの十字架によって示された道であり、復活によって与えられた新しい命なのです。

 

4:  神様の選び 新しく生きる

 神様はここでパウロを選びだされました。6節では【9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」】と言われ15節からは【9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」】と言われました。

 神様はパウロのことを「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるためにわたしが選んだ器である」と言われ、選び出されたのです。神様が誰をいつ選ばれるか。それは誰も知ることのできないところです。聖書で神様は多くの人々を選ばれました。ただ、神様に選ばれた人は、みんな何度も失敗をしています。最初に造られた者アダムも、信仰の父とされるアブラハムも、エジプトからイスラエルを救い出した時の指導者モーセも、イスラエルの王ダビデも・・・そしてそれは「イスラエルの民全体」も、そして、イエス様の弟子たちも、みんな何度も神様から離れていくのです。神様の御言葉を聞きながらも、誘惑に負けてしまい、他者を傷つけ、神様から離れ、神様を裏切っていく時があるのです。

 なぜ、神様はそのような者を選ばれるのでしょうか。理由があるとすれば、その人が間違った道を進みながらも、そこから自分の間違い、弱さを認め、神様に立ち返る者であると見ることができると思うのです。パウロも最初はイエス・キリストを信じる者を迫害する道を歩んでいたのです。しかし、その者を神様は選ばれました。そしてそこからパウロは、自分の弱さを認め、神様に従う者として歩き出したのです。神様はイエス・キリストを選び出しました。それは十字架の上での死への選びであり、新しい命、復活の主として選び出されたのでもあります。神様はこのイエス・キリストの復活を通して、私たちが新しい命の道を歩く、その道を開かれたのです。

 

 イースターの事の時、私たちは素直に、心を開き、復活のイエス・キリストに出会いたいと思います。そして新しい命をいただきましょう。新しく生きる道を歩き出したいと思います。私たちは、自分の弱さを受けいれ、お互いの弱さを分かち合い、共に支え合い歩んでいきたいと思います。そして、そこに平和が創造されるようにと、日々祈り続けて行きたいと思います。(笠井元)