1: 結果を求める社会
今日は、礼拝の後に、定期総会を行います。定期総会では、バプテスト東福岡教会の、昨年一年間の反省と、新しい一年の伝道計画を話し合います。その一つとして、今年度の主題聖句、標語を決めていきたいと思いますが、今日は、今年度の主題聖句として提案します、その箇所から御言葉を受け取っていきたいと思います。
わたしは2013年にこの教会に就任しました。今年で、7年目となります。これまで、皆さんと、この地で神様のために共に働くことができてとても嬉しく思っています。わたしは、この教会に就任してから、最初の目標として、お互いに祈り合う共同体となるということを一つの目標としていました。私たちがキリストの福音を表していくために、お互いのことを知り、理解し、そして祈り合う共同体となっていきたいと願っていました。そして昨年度は、そこから、もう一歩踏み出そうという意味を含めて、「証する共同体」という標語にしました。証をすることは、これまで、それぞれがいただいてきた、主イエスの恵み、そして今いただいている福音をお互いに、共有することになります。そして、同時に、その恵みを言葉として表すことで、喜びを外に向けて発信することにもなるのです。そのために、一ヶ月に一名の方に証をしていただきました。この証を聞くことができたことは、とても良い恵みの時となったと感じています。昨年度も、とても良い、恵みの年となりました。
そのうえで、教会の働きを数字で表すこと自体が、間違ったものであると思いますが、昨年度の働きを、数字だけでみてみますと、特に教会において大きな変化、大きな結果が得られたとは、なかなか言えない状況ではあります。
現代社会では、この結果がすべてとなっています。良いことも、悪いことも、その過程において起こった出来事や、向かっている方向などは関係なく、結果が評価に直結しているのです。少し古くなったかもしれませんが「結果にコミットする」という言葉がCMで使われました。「コミット」とは「コミットメント」の略であり、「約束」「責任」「関わり」などを意味します。つまり結果を約束する、責任を持つという意味です。このCM自体を批判するつもりはありませんが、このCMから、多くの人が、いろいろな場面で同じような言葉を使っていました。つまり「結果を約束する」と言うのです。この言葉からもわかるように、結果がとても重要視されている時代だと思います。
学校では成績、点数だけが問われ、学ぶことによって得られた生き方に対する価値観の変化や、個人個人の成長や努力、勉強方法、時間の使い方の変化や、勉強に対する姿勢などは評価の対象にはなりません。それは、社会が、国家に対する考え方としても同様のことが言えるでしょう。私たちも含め、社会は国家に経済力だけを求めてはいないでしょうか。現代は、何をしても、経済的に豊かになれば、その国家、政治のすべてが認められる社会となっていると感じるのです。たとえ、その中で、だれかの人間としての権利が奪われ、人格が傷つけられていたとしても、たとえ争いを求め、この世に悲しみが溢れていくことになるとしても、そのことで、自分たちの経済的な生活が豊かになるならば・・・許されて、むしろ喜ばれてしまっているのではないでしょうか。
そして、それは教会もまた同様な道へ進もうとしてしまっていないか、よくよく気を付ける必要があるのです。2018年度には、日本バプテスト連盟による提案で、各地方連合における宣教会議が開かれました。これからの連盟の歩む方向を考えるために、まず各地方連合で、各教会の意見を聞くためだと聞いています。そこでは、一つの問題として、今の教会の状態が現代社会に適応していないのではないかという問いがなされました。パワハラ、セクハラ、女性差別やLGBTの方々への対応など、様々な部分で遅れていることへの問題提起がなされました。そして、「パラダイムシフト」という言葉を用いて、これまでの宣教方法の反省と、これからの宣教の形の模索のための話し合いがなされました。このような自分たちの歩みを振り返り話し合い、新しく歩き出す道を模索すること自体はとても大切なことでしょう。ただ私はその会議に参加する中で、話し合いの根底に、教会における教会員の減少、少子高齢化による、教会員の年齢層があがり、子どもたちが減少していくという現実にある不安が見え隠れしている気がしたのです。「なんとかしなければ」・・・「このままでは教会が立ち行かなくなってしまう」「10年後、20年後には・・・」と、先に見える困難と不安が、そのような話し合いの中に感じたのでした。この不安も当然のことでしょう。事実、教会員数、献金などはすべて減少しています。そのような中で、私自身も含め、教会もまた、結局、「結果」がすべてになってしまっている。そのように感じたのでした。会員が増えれば喜び、会員が減れば戸惑うだけになっていないか。数字が増加すれば、よい教会と評価し、数字が減少すれば悪い教会という評価がなされているのではないかと感じるのです。数字だけではなく、そこにある神様の恵みの働きや、神様の計画を信じる思い。信徒の交わりとお互いの祈り。そしてそれぞれの成長にきちんと目を向けることができているのか。教会が何を考え、何をして、どのような道を歩いているのか、また歩かなければならないのかということに、なかなか目を向けられないでいるのではないかと感じたのです。
2: 嘆きと賛美
そのような私たちに向けて、今日の箇所はこのように言います。【126:1 【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。126:3 主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。】(新共同訳)この最初の3節は、この新共同訳では、すべてが未来形の言葉となっています。ただ、本来の言葉では、ここは過去形で語られているのです。一度、口語訳の言葉を読んでみたいと思います。【126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と、言った者が、もろもろの国民の中にあった。126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。】(口語訳)
この後の5-6では未来を語っていますので、全体としては未来の希望を賛美する歌となっています。しかし、本来1-3では、過去の神様による救いを賛美しています。ここでは過去の困難や苦しみについては語られていませんが、神様による「繁栄の回復」「主の大いなること」などの言葉から、過去に大きな困難があったことを読み取ることができるのです。
過去に大きな困難があった。イスラエルは、過去に大きな困難に直面してきたのです。具体的に言えば、イスラエルは二つの国に分裂し、北はアッシリア、南はバビロニアによって制圧され、人々は奴隷として連れて行かれたのでした。神の民とされたイスラエルという国は一度滅んだのです。人々はばらばらにされ、そこには絶望しかなかったでしょう。そして、そのようなイスラエルが、ペルシャのキュロス王によって解放されていくことになるのです。そして、この捕囚からの解放による希望を、ここでは神様の御業として、賛美しているのです。口語訳の言葉ですが【126:1 主がシオンの繁栄を回復された】のです。この言葉をもう一つの訳、新改訳聖書では【126:1 【主】がシオンの繁栄を元どおりにされた】とも訳しています。イスラエルは滅びた。しかしそれは完全に滅びたわけではなかった。神様はそのイスラエルを「回復」され「元通り」にされたのです。これが箇所における今日の喜び、賛美、笑いなのです。
3: 嘆きと向き合う
ここで、間違えたくないのは、この賛美は、過去の嘆き、過去の困難から救い出された喜びの歌であるだけのものではないということです。困難から救い出された者の賛美。それだけでは、この賛美は、現実に苦しんでいる者にとっては何の意味もない、むなしい賛美となってしまうのではないでしょうか。
私自身、自分が困難の中にある時に、困難から抜け出した人の喜びを見ても、自分の喜びにはなかなかつながりません。この賛美は、現実の嘆きから目をそらして、むなしい賛美を歌っているのではないのです。また、ずっと賛美できるような状態でいなければならないと言っているのでもないのです。この賛美は希望を歌います。そして希望を持つことは、現実の困難に立ち向かう強さを与えるのです。
私たちは目の前に困難があるときに、どのような気持ちになるでしょうか。病気、事故、災害、死。私たちが生きる中では様々な困難が待ち受けています。私たち日本人にとっては忘れることができない災害がたくさんあります。阪神淡路大震災、そして東日本大震災、福岡では西方沖地震がありました。また、世界を見渡してみてみますと、9.11のテロ事件。そしてそこから起こった戦争。各地におけるテロ、戦争によって難民となられた人々の受け入れの問題。私たちの目にはなかなか見えませんが、ご飯を食べることができないで、餓死していく子どもたちが、この世にはたくさんいるのです。世界には様々な困難が起こり、そして、今も起こっているのです。もっと身近なことで言えば、会社や学校などでの人間関係の軋轢(あつれき)による痛み、個人的な病気・・・また家族や友人、先生など、とても大切な人の死。私たちが生きる中では本当に多くの困難があるのです。
わたしたちは、このような困難に出会うとき、嘆き、悲しみ、傷つきます。そのこと自体は当然のことで、必要なことです。しかし、悲しむことと、悲しみに囚われること、嘆きの中に生きることと、嘆きに囚われて生きることは少し違うのだと思います。世界ではその嘆きに囚われ、嘆きが嘆きを生み出す道を進んでいくことが多数あるのです。他者に傷つけられ、報復行為として他者を傷つけ、怒りにまかせて暴力に走り、暗闇から暗闇を生み出していく。そのような道を歩いてしまっていることがあるのではないでしょうか。
私たちがきちんと嘆きに向き合うためには、希望が必要です。今日の喜びの賛美は、決してむなしい希望を歌っているのでもなければ、勝利を勝ち取った者だけの歌でもありません。今、苦しみの中にある者、今、悲しんでいる人が、その悲しみの中でも、闇にとらわれることなく、希望に生きるために与えられている賛美なのです。
確かに苦難はある。しかし、同時に確かに希望も無くなることはないのです。私たちが生きる中では確かに、困難にぶつかります。しかし、神様はその困難を打ち破る希望の道を備えていてくださるのです。嘆きと喜び、絶望と希望。この両方を持って生きるところに、神様に与えられた人生の意味が見えてくるのではないでしょうか。
4 希望を持つ人生
4節からはこのように言います。【126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。】ネゲブというのは乾燥地帯で、なかなか雨が降ることのない地帯のようです。ただ冬になると突如として雨が降り、雨が降ると川床に水が流れて川が出来るのです。これは、自然の出来事として起きる出来事です。ネゲブの川とは、そこに、何もないと思っていても、毎年、必ず生まれる川の流れのことで、苦難の中、絶望の中にも、必ず来られる神様の救いを表しているのです。人間には、何も見えなくても神様は働かれているのです。毎年、変わることなくネゲブに自然と川が出来るように、神様は変わることなく、私たちのために働いていてくださるのです。5節から、このように歌います。【126:5 涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。】今年度の主題聖句としていこうと思っている箇所ですが、この言葉を聞く時に、私は勇気と希望をいただくのです。
神様は十字架という嘆きを、復活という希望に変えられました。神様は死から命を、無から有を造り、絶望から希望を造りだされる方なのです。私たちに与えられているイエス・キリストによる恵み。それは死をも打ち破る希望です。イエス・キリストは、私たちの苦しみを共に担い、歩むために、この世に来られたのです。そして、苦しみに生きる者、困難にぶつかっている者、孤独な者、罪ある者、すべての者と共に歩まれているのです。そして人間にとって一番の暗闇である死を打ち破るために、十字架の上で死を受けられたのです。先週はイースター、復活祭として復活の出来事をみんなでお祝いしました。イエス・キリストは、その死を打ち破り、復活されたのです。つまり、涙をもって福音の種を蒔き、そして新しい命という収穫をなされたのです。復活は、むなしい喜び、根拠のない希望ではありません。イエス・キリストが命を懸けて創造された新しい命、決してなくなることのない希望です。私たちがいただいているのは、このイエス・キリストが涙のうちに命をかけて、蒔き続けてくださっている、福音、希望です。
私たちは、この新しい一年間を見る中で。イエス・キリストによる福音、希望を持って歩き出したいと思うのです。主イエス・キリストが、私たちにくださっている、福音の種を、わたしたちもまた蒔き続けていきたいと思うのです。 私たちは嘆きという現実にあっても、福音の種を蒔き続けましょう。そこに必ず希望を見ることができるでしょう。(笠井元)