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2019.5.12 「愛されている者として生きる」(全文) ルカによる福音書19:1-10

1:  ザアカイ 

 今日の聖書には、ザアカイという人が登場します。ザアカイは「徴税人の頭」であり、「お金持ち」でした。「徴税人」とは、当時、ユダヤ人を支配していたローマ帝国による税金を集める人たちで、ユダヤ人にとってみればローマの手下として働く、裏切り者でした。ザアカイはユダヤ人にとっては裏切り者、罪人と言われた存在で、しかもその頭、トップです。ユダヤ社会においては、一番の嫌われ者だったでしょう。お金目当ての友だちはいたかもしれませんが、すべて腹を割って話すことができる友だちなどはいなかったでしょう。

 そんなザアカイのもう一つの特徴として「背が低かった」のです。聖書で背が低い人として出てくるのは、このザアカイだけです。今の世の中において「背が低い」ことは悪いことでも、恥ずかしいことでも、なんでもありません。ただイエス様が生きた2000年前では、「背が低い」というのは、ただ背が低いということだけではなく、解釈によっては、病気のため背が伸びなかったことを表し、肉体的なハンデキャップをもっていたとも考えられていました。そして、それは、裏切り者に対する神様の裁きだと、そのように解釈されることもあったようです。

 サッカーで有名なアルゼンチン代表選手メッシは、「神の子」と呼ばれるほどに、サッカー界ではヒーロー、スーパースターのような存在です。しかし、このメッシ選手も「成長ホルモン分泌不全性低身長症」という病気だと言われています。どんな病気かと言いますと、ホルモンの分泌に異常が起こり、身体が成長しにくくなる病気です。簡単に言ってしまえば身長が伸びない病気です。それでもメッシはスーパースターとして存在しています。私のいとこも、骨の病気で、背が伸びないため、何度も何度も手術をしました。

 ここで言われるザアカイが実際にどのような状態であったのかは明確ではありませんが・・・ザアカイはこのことに一つのコンプレックスをもっていたと思うのです。特に、人々から裏切り者とされるザアカイです。このような弱点は馬鹿にされたり、非難される格好の事柄であったかもしれません。

 皆さんは、自分に、または家族に、お子さんに、何かコンプレックスをもっているでしょうか。わたしは小さい頃から背は高いほうですが、サッカーをしていたからでしょうか。「足が短い」のです。背が高い分、座高は高いけど、足は短いということが、余計に目立ち、小さいころは、友だちなどからも馬鹿にされて、自分のコンプレックスで、嫌いな一部でした。わたしは「足が長い人はいいな~」といつも思っていました。

 

2:  生きる意味をもとめて 

 このようなザアカイをイエス様は「失われたもの」と表しています。この言葉には「滅んでいるとか」「ダメになっている」という意味があります。ザアカイはお金は持っていました。裕福で、何も問題なく生きることはできました。今で言えば「勝ち組」と呼ばれる立場にいたのです。ただ、そんな勝ち組という存在のはずなのに、ザアカイはコンプレックスの塊のようになり、友だちもいなかったのです。まるで「滅んだ者」「失われた者」として生きていたのです。ザアカイは孤独でした。心には寂しさが満ちて、隙間風のようなものが吹いていたでしょう。

 皆さんは、お金持ち、成功者でありながら、孤独であることと、一日一日生きることで精いっぱいですが、喜びで満ちて、共に生きる家族や、友人がいることの、どちらの立場を優先して選ぶでしょうか。もちろん、お金持ちであり、家族友人で囲まれて、喜びで満ちているのが一番いいと思いますが・・・どちらを優先していくというときにわたしは後者を選びたいと思います。ただ・・・この社会が勧めているのは前者です。いつも他者と自分とを比べ、勝ち負けで競い、他者をけり落としてでも、勝ち組、成功者となるために生きることが良いと、そのような価値観を持つように推し進めているのが、私たちが生きる社会なのです。私たちが生きるこの社会は、知恵をつけて、能力を上げて・・・何を求めているでしょうか。それは自分が成功者、勝ち組となることです。しかし、聖書は、知恵や力を持つことの目的を、困っている人と共に生きるために、お互いに助け合うために、何よりも、仕える者となるように、使うように教えています。

 

 このとき、ザアカイは「イエス様がエリコの町に来られた」と聞きました。孤独であったザアカイ、失われた者として虚しい人生を歩んでいたザアカイはイエス様を見ようと一所懸命走り出しました。でも、目の前には多くの人々で、見ることができません。これはザアカイが持つ、コンプレックスや「徴税人の頭」という立場、今の生活など、心の壁が、イエス様に行く道に壁を作っていることを表しているのだと思うのです。「あれができない」「これができない」。そんなかたちで自分と他人と比べていくときに、わたしたちは心を閉じてしまうことがあります。それは、私たちが愛されているということを受け入れられないように壁を作ってしまう、いわゆる自己肯定感を失わせていくということです。「自分は愛される存在ではない。」「神様が自分を愛している?そんなわけがないだろう」「愛された者として生きる?そんなことにどんな利益、得があるのか」「まったく無意味なことだ」と心に壁を作らせていくのです。もちろんザアカイもいつもはそうであったでしょう。だれからも相手にされないことにより、心を閉ざし、人間関係に壁をつくり、誰かと関係を持つことを自ら絶っていたのではないでしょうか。

 ただ、この時のザアカイは、違いました。そこから一歩踏み出したのです。ここではいちじくの木に登ってでもイエス様に会おうとしたのです。ザアカイは、心を開き、神様の愛を求めて歩き出したのでした。ザアカイは、自分の状態を見て、「このままではいけない。なんとかしたい。なんとかしてください。」と求めたのです。主イエスに「助けてください」と求めたのでした。日々の暮らしの中で、どうにかしなければと感じ、決心して、祈りをこめて、イエス・キリストのことを「捜し求めた」のでした。

 

3:  下におられる方 

 イエス・キリストは、そのようなザアカイに目を向けられました。イエス様は、いちじく桑の木に登ったザアカイを見て、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と語られます。そして、ザアカイは、イエス様を自分の家に迎え入れたのです。イエス様はいちじくの木の下からザアカイに声を掛けました。

 このイエス様の姿は、下から人間を支えようとする神様の姿を表します。誰もが、お互いの上に立とうとするこの社会において、イエス様、私たちを愛する神様は、他者の下に来られた。他者に仕える者としてこの世界に来られたのです。今日の最初に読んでいただいた聖書の言葉ですが、聖書には、このような言葉があります。「2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

 イエス・キリストは自分を無にして、僕となられた。十字架の死に象徴されるように、へりくだりの人生を生きたのです。イエス様は、ザアカイに「急いで降りてきなさい」と言われました。それは「ザアカイ、あなたもへりくだる者として生きる道を選びなさい。そこに本当に生きる命の意味がある」と教えられているのです。 イエス・キリストは自らが、一番の僕となりながら、そのように、僕として、へりくだり生きること、愛されるだけを求めるのではなく、愛する道を教えられているのです。

 

4:  仕えて生きる 

 イエス様は、ザアカイに、この世の価値観における成功者として生きるのではなく、背伸びをして生きるのではなく、神様に命を与えられ、生かされている、愛されている者として、自分を愛し、隣人を愛することを教えます。神様は私たち人間のすべてを愛してくださっているのです。「背が小さい」、「友達がいない」、そのほかいろいろなコンプレックスに囚われるのではなく・・・まず、だれよりも下に立ち、支え、愛してくださっているイエス・キリストの恵みに目を向けることを教えて下さっているのです。 私たちは自分が神様に愛されていることを知るとき、人生の価値観は変えられていきます。

 神様の教える価値観。それは自分のためだけに生きることではなく、愛されている者として、自分の弱さを受け入れながらも、他者を愛し、他者に愛されて、お互いに仕えて生きるという価値観です。イエス様に出会ったザアカイはこのように言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカによる福音書19:8これはザアカイがただ良い人になったということではありません。そうではなく、「成功者にならなければならい」という思いから解放された言葉なのです。

 ザアカイは、イエス・キリストに出会い、生き方を変えられたのです。自分は愛されている。それがたとえどのような状態であっても。自分は愛されている。だからこそ、自分も他者を愛する者とされていく。他者の痛みに寄り添い、へりくだり生きる。このような生き方は、人間の心を解放します。

 私は、このことを、幼稚園の子どもたちと共に、そして保護者の皆さんと共に、そして教会の皆さんと共に分かち合っていきたいと思っています。是非、神様に愛されていること、本当の喜びは、自分だけの為だけに生きることではなく、他者と共に生きること、他者に仕えるところにあることを、共に喜び、受け取っていきましょう。

 最後に、アッシジのフランシスコという人の、「平和を求める祈り」という祈りを読んで終わりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神よ、わたしを平和の器とならせてください。

 

憎しみがあるところに愛を、

 

争いがあるところに赦しを、

 

分裂があるところに一致を、

 

疑いのあるところに信仰を、

 

誤りがあるところに真理を、

 

絶望があるところに希望を、

 

闇あるところに光を、

 

悲しみあるところに喜びをもたらす者としてください。

 

 

 

神よ、慰められるよりも慰める者としてください。

 

理解されるよりも理解する者に、

 

愛されるよりも愛する者としてください。

 

わたしたちは、自ら与えることによって受け、

 

赦すことによって赦され、

 

自分を捨てて死ぬことによって

 

とこしえの命を得ることができるからです。

 

 (アッシジのフランシスコ 『平和の祈り』)

 

 

(笠井元)