1: 見せかけの平和
イエス様は「平和ではなく、剣をもたらすために来た」というとても強烈な言葉を語ります。私たちは表面的に争いがないことを平和としてしまうことがあります。軍事力、経済力によって他者を抑え込み、対抗すること、意見を言うこともゆるさない、それはみせかけの平和です。もう一つの間違った平和の形として、問題から目をそらし意見を言わないという形があります。問題を解決するために争うのではなく、なかったことにして現状維持を求める。これもみせかの平和でしかないのです。イエス様は、人間が作っている見せかけの平和を打ち砕き、本当の平和を求めていくことを教えられたのです。
2: キリストの平和
イエス様はみせかけの平和を打ち砕き、本当の神様の平和を作り出すために来られたのです。イエス様が作り出す平和は神様を第一として生きる道です。神様の愛を求め、神様の御心を求めるところに本当の平和を作り出す道があるのです。神様の御心を求めて生きるか、それとも別の何かを求めて生きるのか。私たちは、どちらを選んで生きているでしょうか。この二つの選択の道において、人生の最後まで神様の御心に従った方はイエス・キリストのみです。イエス様はただ神様の御心のみを求めて生きたのです。
3: この世との対立
この世は、隣人が苦しんでいようとも助けることではなく、むしろ自分の為であれば、いくらでも隣人を苦しませて生きるのです。その最大の出来事が、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは十字架において死なれ、その中で本当の命を得たのです。イエス様は「この十字架の道を歩きなさい」と言われました。
4: イエス・キリストの十字架に従う
イエス様はこの世に剣をもたらされた。それはただ人間の求めるみせかけの平和を壊すだけではなく、新しい本当の平和を作るためです。私たちが神様の愛の道を歩くことは、この世の作りだすみせかけの平和から、本当の平和をつくり、本当の命を得るために歩くことなのです。その道は少なからずの反感を受けるかもしれません。それでも私たちは、イエス・キリストの十字架という恵みの中で生きていきたいと思うのです。
私たちには、共に生きるイエス・キリストによる兄弟姉妹がいるのです。この世の反発、対抗に向かっていくために教会があるのです。私たちはたった一杯の水、小さい祈りをもって、お互いに助け合っていきましょう。(笠井元)