1: 人を生かし、心を豊かにする律法
今日の箇所から、安息日についての論争が始まります。ファリサイ派の人々は、イエス様に「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」(2)と言いました。この時、イエス様の弟子たちは、麦畑を通る中で、おなかがすいたので、その麦の穂を摘んで食べ始めたのでした。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちが勝手にだれかの畑の麦を食べたことを非難しているのではないのです。律法にはこのような言葉がありました。【23:25 隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。23:26 隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。】(申命記23:25-26)神様が与えられた律法では、「隣の人のぶどう園や麦畑に入って、鎌を使ったり、籠に入れて持って帰ってはいけないが、そこで思う存分食べてよい」とあるのです。これは、畑を持たない人、働くあてもなく路頭に迷っている人など貧しい人、弱い人に配慮した法律です。神様のくださった律法はとても温かく、やさしい法律、人を生かす教えだと思います。また、このことを受け入れて生きていたイスラエルの人々の心には、その温かさが広がっていたことでしょう。
少し、話は違うかもしれませんが・・・わたしは、最近はしていませんが、以前は畑を作り、キュウリ、ミニトマトなどを栽培していました。その中である時、ミニスイカを植えてみたことがありました。ミニスイカは、それまで、育てていたキュウリなどよりも、少し手間のかかるものでしたが、なんとか育てて、やっと一つのスイカができてきたのです。ただ、大きくなってきたと喜んでいると、ある日、そのミニスイカが食べられていたのです。カラスか何かわかりませんが、無残に食べ散らかしてあったのを見て、わたしは、「もう二度とミニスイカなど作るものか」と思いました。もちろん心を込めて作っていたわけで、大切なものがとられたのですから、怒っても当然かと思うのですが、それでもある意味、趣味の範囲のものですし、その一個のものがとられただけといえば、それまでのことのはずです。ただ、それでもとても悔しかったです。
それに対して、当時のイスラエルは、すでに遊牧民から農耕民族となり、畑で採れたものを食べて、それを命の糧として生きていたのです。イスラエルの民は、自分のもつ作物、その財産、生きる糧、その一部を他人のために残しておくこと、また、他人が入って食べてよいということを受け入れていったのでした。しかも、そのときに、「もったいない」とか「ずるい」といった思いではなく、恵みを分かち合うことで、心を豊かにし、どこか温かみのある思いをつくりだしていたのではないかと思うのです。そのような意味で、神様の与えられた律法は人を生かし、心を豊かに育てる法律であるのです。神様からの恵みを他者と共有する時、私たちの心は豊かにされます。
2: 人を裁く律法
さて少し、話がそれてしまいましたが・・・先ほどの申命記の言葉にもありますように、このイエス様の弟子たちが穂を摘むこと自体は大きな問題はありませんでした。そうではなく、ファリサイ派の人々は、この日が安息日であったということを問題としているのです。安息日とは、神様が世界を創造された最後に安息された日として、また、奴隷であったイスラエルをエジプトから救い出した、その救いの出来事を思い出す日として、仕事をしないで、神様に礼拝することが決められた日でした。申命記にはこのように記されています。【5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。】(申命記5:12-14)ここでも「奴隷も家畜も、寄留する者も、休むことができるため」ともあるように、この律法でも「貧しい者のため」に・・・という神様の恵みを弱い者、貧しい者と共に分かち合う・・・という思いを見ることができるのです。この申命記の言葉において、安息日は、「いかなる仕事もしてはならない」(14)とされるのです。ファリサイ派の人々が非難したのは、このことです。イエス様の弟子たちが穂を摘んだのが、「いかなる労働もしてはいけない」とされる安息日であったということ、弟子たちが「安息日」に、労働として「穂を摘む」ということを行ったことを非難しているのです。
この時、ファリサイ派の人々がそこまで、律法を厳守することにこだわったのは、神様の律法を大切にしようという思いもあったとは思うのですが、それよりも律法によって、自分を正しい者とし、律法を守らない者を裁こうという思いが強かったのです。ファリサイ派の人々は律法をもって他者を裁いていた。律法をもって、人を縛り付けていたのです。そのような意味で、このファリサイ派の人々は、本来、人を生かし、心を豊かにする律法を用いて、人を縛り、他者を裁き、心を貧しくしていたのです。
3: 主日礼拝を守る意味
それに対して、イエス様は、「自分の弟子を弁護する」という意味というよりも、ファリサイ派の人々が律法を用いて、人を裁いてしまっている、その姿勢を問われていったのです。「貧しい人でも、飢えている人でも、安息日だから働いてはいけない。たとえそれが命に関わる事柄となっていても、安息日だから、働いてはいけない。神様の律法を守ることが最優先されるべきだ。この律法を守ることができない人は、罪人であり、ユダヤの社会で生きる権利はない」と、このように律法をもって人を裁いていた、その姿勢に問題があると、イエス様は教えておられるのです。先ほども言いましたように、安息日は、神様が世界を創造された最後に安息された日として、また、奴隷であったイスラエルをエジプトから救い出した、その救いの出来事を思い出す日として、仕事をしないように守ることがきめられた日です。それは、肉体的な安息と共に、日常生活を離れ、今一度、神様のもとに帰り、心を休める時、礼拝し、神様の御心に沿って生きることの恵みをもう一度いただく時でもあったのです。安息日。それは恵みの時でした。神様に向き合う大切な時間なのです。
現代の、私たちにとって、「安息日を守りましょう」という法律は、「主日礼拝を守りましょう」ということにつながっています。以前、ある方から、別の教会の牧師に「『礼拝に行きたいのですが、どうしても今度の日曜日に礼拝にいけない』と言ったら『もし日曜日に礼拝に来なければあなたは地獄に落ちることになるだろう』と言われた」と相談を受けたことがありました。皆さんはこの相談を、どのように思うでしょうか。「ばかばかしい」、「教会の礼拝は行きたい時だけいけばいい」とは思わないでください。「主日礼拝を守ること」。これは簡単な問題ではないのです。
まず、相談に来られた方の思い、この「礼拝に出席したい」という思い、それでも「礼拝に出席できない、いったいどうすればいいのか」と真剣に悩むこと、その「礼拝を守りたい」という姿勢が、とても素敵な神様への思いだと思います。私たちも礼拝に対する熱い思いを持ちたいと思うのです。
私たちは、なぜ主日礼拝に来るのでしょうか。私たちは、まず、この主日礼拝を守ることが、恵みの時であるということを再確認しましょう。主、イエス・キリストがこの世界に来てくださり、苦しんでいる人と共に生きて、十字架で死に、そして復活してくださった。私たちは、この復活の命を、主日礼拝で再確認し、いただくのです。主の復活を覚える。それは神様の愛をもう一度確認し、いただくことです。そしてその喜びを分かち合うとき、それが礼拝です。私たちは、礼拝によって、神様の愛、その祝福をいただくのです。
私たちが生きている日々は、とても厳しい日々だと思うのです。毎日毎日をどうにか生きている。その中では、悲しい事もあれば、納得のいかないことも起こります。先日、川崎市において、小学生を含めた19人の人が刃物で傷つけられ、死傷したという、とても悲しい事件が起こりました。今回、この事件を起こした男性の行為は、明らかに間違った行為です。この男性の行為に対して社会が批判し、怒りを持つことは当然です。ただ、人が人を傷つけること。それはただ、「その傷つけた人がとても悪い人であっただけだ」と、それだけで終わらせることはできないとも思うのです。人間は生まれる家庭環境を選ぶことはできません。また育っていく社会が正しいのか、間違っているのかを、自分で判断し、自分の意志だけでその環境を変えていくことは、なかなかできないものでしょう。その社会の中で生きることによって、心が傷つき、生きることに限界を感じて、その上で起こされていく事件もたくさんあるのです。
わたしたちは、この世界において起きている一つ一つの悲しい出来事が、自分の生きている一秒一秒と繋がっているということ、もしかしたら、自分が選んだ道の一つが、だれかを傷つけて、その出来事から、大きな事件を起こしているのかもしれない。つまり、自分は他者と、社会とつながっているということ、ニュースで流れる、大きな悲しい事件だけでなくても、隣にいるだれかが悲しみ、心に傷を持つことに、自分はまったく無関係ではないということを覚えておきたいと思うのです。私たちは、そのような厳しい社会に生きています。つまり、人間同士、関係を持ち、時に、支え合い、喜び合いながらも、時に傷つけ、傷つけられ、毎日があらゆる選択と誘惑との戦いの日々を生きているのです。そしてそのような私たちに、一時の安らぎと平安を与え、私たちが生きていることに価値があること、たとえ間違った道に歩んでしまっていたとしても、もう一度、立ち帰ることができること、何があっても、愛してくださっている方がおられるということ、その神様の慈しみと恵みが与えられていることを、この主日礼拝でいただくのです。そのために主日礼拝はあるのです。
私たちは、この主日礼拝において、神様からの恵みをいただきましょう。「あなたは愛されている」をいう喜びを受け取っていきたいと思うのです。「こなければならない」のではないのです。「来ることによって、最高の恵みがいただけるからこそ、来るのです。」もし主日礼拝が、皆さんにとって、そのようなものとなっていないのならば、今日、今この時、神様の愛に触れてほしいと思います。「あなたは愛されています」「生きていることが喜ばれています」。そして「主イエスがあなたと共に生きてくださっているのです」、「あなたの命は輝いているのです」。このことを受け取り、新たな力を受けて、歩き出す。それが主日礼拝にくる一つの大きな意味でしょう。
現在、この教会においても、病気のため、諸事情のため、礼拝を欠席しなければならない方々がおられます。どんなに「礼拝に出席したい」と思っていても、それでも来ることができない方がおられるのです。今日は、花の日礼拝として、みんなでお花をもちよって礼拝をしています。この花の日礼拝の時、わたしちは、礼拝に来ることができない方々を覚えて、お花をもって訪問に出かけます。今日は、秦三謝子さん、小山治子さん、鶴見健太郎さんのところに、それぞれ分かれていきたいと思います。皆さんもぜひ、一緒に行きましょう。そして、礼拝でいただいている恵み、神様の愛を、共に分かち合う時をもちたいと思うのです。
4: 神様の求めるのは憐れみである
イエス様は、7節の言葉【わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない】と言われました。この言葉は旧約聖書ホセア書6章6節の言葉で、「神様が求めるのは、憐れみであり、それはいけにえ、つまり安息日を守ること、そのような律法よりも憐れみが優先される」と言っているのです。神様は憐れみの主です。その神様のくださった律法は、私たち人間がお互いに、憐れみをもって生きるために示された道筋です。自分が傷ついたとしても、貧しい者のために、痛みを分かち合う。人を生かし、人の心を豊かにする教え、それが神様のくださっている律法、生き方です。私たちは、まず神様の憐れみをいただきましょう。そしてこの神様の憐れみに生きていきましょう。
イエス様は今日の箇所の前11:28において、【11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。】と言われました。神様は、世界を造り、命を造り、命を養い、私たちを愛し、私たちと共に生きて、私たちが生きる道にいつも共にいてくださり、その重荷を共に担って下さる方です。そして、この愛を表すために、神様はこの世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。神様は、イエス・キリストを通して、この世に愛を注いでくださったのです。
イエス・キリストは、私たちが疲れた時、共に疲れを担い、私たちが重荷を負う時に、共に苦しみながらも、その重荷を担ってくださる方となられたのです。イエス様による愛。それは貧しい人間の心を豊かにするために、頑なで、自分中心な人間の心を開き、共に生きることを喜び、お互いを憐れみ、お互いに支え合い生きる勇気と力を与えるために、神様は自らがまず、痛みを持って、私たちを愛されたのです。このイエス・キリストのもとに、わたしたちは本当の疲れ、重荷をおろすことができるのです。私たちは、この「主の日」に、もう一度、イエス・キリストによる神様の愛をいただきましょう。そして、どのような時にあっても、神様が私たちを愛してくださっているという、神様の憐れみに生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)