1: 人を生かし、心を豊かにする律法
イエス様の弟子たちは、麦畑を通る中で麦の穂を摘んで食べ始めたのでした。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:26)律法ではこのように言われています。これは畑を持たない人、働くあてもなく路頭に迷っている人など、貧しい人、弱い人に配慮した法律です。神様の与えられた律法は人を生かし、心を育てる法律だと感じるのです。
2: いかなる仕事もしてはならない
イエス様の弟子たちが穂を摘むこと自体が大きな問題があったのではありません。ファリサイ派の人々は、この日が安息日であったということを問題としているのです。安息日は仕事をしないで神様に礼拝すると決められた日でした。ファリサイ派の人々が非難したのは、イエス様の弟子たちが穂を摘んだのが安息日であったということです。ファリサイ派の人々は律法をもって他者を裁き、心を貧しくしていたのです。
3: 主日礼拝を守る意味
イエス様はファリサイ派の人々が律法を用いて人を裁く、その姿勢を問われていたのです。安息日は恵みの時、神様に向き合う大切な時間なのです。私たちにとって「安息日を守る」という律法は「主日礼拝を守りましょう」ということにつながります。主日礼拝も「来ないことによってあなたは罪人とされる」という裁きにつながるのです。私たちはなぜ主日礼拝に来るのでしょうか。私たちはイエス・キリストによる復活の命を主日礼拝でいただくのです。「あなたは愛されている。主イエスがあなたと共に生きてくださっている。あなたの命は輝いている」ということを受け取り、新たな力を受けて歩き出すことが主日礼拝にくる意味でしょう。
4: 神様の求めるのは憐れみである
イエス様は「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(7)と言われました。神様は憐れみの主です。人を生かし、人の心を豊かにする教え、それが神様のくださっている生き方です。神様の憐れみをいただきましょう。そしの神様の憐れみに生きていきましょう。
神様はイエス・キリストを通して愛を注いでくださったのです。イエス・キリストは私たちが疲れた時共に疲れを担い、私たちが重荷を負う時に共に苦しみながらも重荷を担ってくださる方となられたのです。神様は自ら痛みを持って私たちを愛されたのです。私たちは、神様が私たちを愛してくださっているという、神様の憐れみに生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)